Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「夫」新婚旅行...直前、夫の前妻の死、父親の他界

2001年「結納なし」「結婚式なし」「披露宴なし」「ウエディングフォトなし」
で「入籍のみ」となり、結婚した。
だが「新婚旅行は行く」と夫は言い出した。
彼は「海外旅行が趣味」だからだ。


だが、私にはお金はない。
「無い」と言うより、私が入籍する時、両親が「初婚で結婚するのに、誰も祝ってあげないのは可哀想だから、お父さんとお母さんとで、おまえを送ってやるからな。それと
結納もなし、結婚式も披露宴もなしでは、おまえに花嫁道具の一つも買ってあげれない。
お父さんが今、病気になって入退院でそれだけお金がかかるか分からない。
たったこれだけしかお前に渡してあげれないが.....ごめんな...」と父親が言いながら
私に「ご祝儀袋」に30万円を入れて渡してくれたのだった。
そのお金は、使えない。
これから、余命いくばくもない父親のお通夜や葬儀代の足しにしたいからだった。

新婚旅行は、彼の貯金と、たまった「マイレージ」での新婚旅行だった。
「行き先」「宿泊先」「観光」などなど、すべて、彼が仕切った。
「俺が金を出すのだから」と言う理由だ。


行き先は「ヨーロッパ」のパリ・スイス・プラハ・ニースだと言う。
パリだけは、初めての海外旅行で彼と行った事はあり、素敵な街だったので行きたかった。それ以外は「彼の行きたい場所」だけだった。
ところが、旅の本を買ってきて、私に「この観光地のどこに行きたいか、勉強しとけ」と。だが、語学もできない私には、海外旅行での観光には、あまり興味がない。
「海外旅行=買い物」ぐらいだった。
お金もない私には、それすらも興味ない。


それより、私には「余命短い父親」の事の方が気になったのだ。
「もし、新婚旅行中に、父親が危篤になっても、また、彼に反対され帰れない」と恐怖があったのだった。
本来であれば、夫になる彼が、その事を気にかけ、旅行の日程を延期するとか、言ってくれるのであろう。だが、現実は夫はお構いなし「他にまとめて休みを取れる日がない」と言う。
仕方なく、予定していた日程で行く事となった。


私は藁をも縋る思いで「どうか、新婚旅行から帰るまでは、父親が急変しませんように」
と祈るしかなかった。


そして、日程や行く場所も決まった矢先の事だった。
夫が職場から、早く帰宅したのだ。
「どうしたの?」と聞くと、ワナワナとしながら「今、大学の同級生からメールが来て
前の嫁さんが死んだと.....自殺したと.....」と言うのだ。
私は、もちろん、前の奥さんとは会った事も無いし、話した事もない。
夫は離婚してから、私とは知り合ったからだ。
だが、不思議な事に、一度だけ、新婚旅行に行く際、夫のパスポートの緊急連絡先には
前の奥様の名前と、住所、電話番号が書かれたままだった。夫もそのままにすると言う。
夫からは「前の嫁さんは、気が強く、一度嫌いになると、同じ空気さえも吸いたくないと
キッパリ切るタイプなんだ」と聞いていた。
そんな中、夫のパスポートの緊急連絡先に記載している前の奥様に、一度だけ電話をした事があるのだった。その日は、丁度、前の奥様が、亡くなったいた日にちだったのだ。
もちろん、電話にも出ないはずだ。
私自身、今までそんな事をしようとも思った事は無かった。だが、なぜか、その時だけは、前の奥様の事が気になったのだった。
例え、健在で電話に出たとしても「何を話したらいいのだろう?」と思いながら電話をしていたのだった。俗に言う「虫の知らせ」と言うのだろうか?


夫の前の奥さまが亡くなったと聞いて、夫はワナワナとしていた。
だが、その当日の夜にはイビキをかいて寝ていたのだ。
私の方が、いろいろ考えてしまい眠れなかった。
「もしかしたら、前の奥さんは、夫が再婚したと聞いて、自殺してしまったのでは?」
「大学の時の共通の友人がいて、夫は繋がりがあり、新婚旅行に行く、直前に前の奥さんが自殺したのは、同級生から聞いて、夫への恨みからなのではないか?」とか
「私が前の奥さんに電話するのが、もっと早かったら、何かの歯止めになったのでは?」
「なぜ?有名な大学まで出て、頭も良くて、国立大の講師にまでなって、再婚ならすぐにでもできたのでは?次の就職など、引く手あまただったのでは?なぜ?勿体無い」と
私はしばらくの期間、寝る事さえもできなくなった。


私は夫に「前の奥さんの通夜や葬儀、納骨などもあるし、新婚旅行は延期する?」と聞いた。だが夫は「いや、もう、すべて終わってから、俺に連絡が来たんだ。遺書には俺には
知らせないで欲しいと書いてあったそうだ。」と。


そして、新婚旅行に行く前には、毎日の様に、私は父親に電話をした。
「もしかしたら、これが最期の声になるかもしれない」と思ったからだ。
父親は毎日「お前は、新婚旅行からいつ帰って来るんだ?」と聞いてきた。


そして、新婚旅行当日、成田空港からも、父親に電話した。
父親は「気を付けて行ってくるんだぞ。楽しんでおいで」と言ってくれたのだった。


飛行機に乗っても、現地に到着しても、私は「余命短い父親の事が心配」夫は「前の奥様の自殺へのショック」で、お互いにとても楽しむどころではなかったのだ。


現地での記憶もまばらだ。
「スイスは山がキレイだった。天気も良く、空気が澄んでて良かった」
「プラハはお城がキレイだった。観光客が世界中から来てて、すごい人だった」
「パリは相変わらず、日本人が多いな」
「ニースは、海がキレイだった。砂浜ではなく小石の浜で、歩くのが痛かった」
程度だったのだ。どこか、私も夫も「上の空」だった。


まさか、その時、夫には愛人が居て、現地からも愛人に連絡を取ってるなどと思いもしなかったのだ。
現地に着くたびに、私は父親に電話した。
父親は「電話代が高いから、そんなに電話してこなくていいぞ」と言うのだった。
案の定、夫は「そんなに国際電話ばかりしてたら、高いから」と嫌味を言われた。
だが、事が事だけに、それさえも、認めてくれない夫に腹が立った。
愛人への連絡は高くなくて、妻が余命短い父親に電話をするのは高いのか??
私は、夫に嫌味を言われても、父親に電話をしてきた。
「お前はいつ帰るんだ?」と、その都度聞かれるのだ。
「電話代が高いから電話してこなくていいぞ」と言っていた父親だが、後で母親が言うには「電話が鳴ると、ブルムンかな?と本当は、楽しみにしてたのよ」と。


そして、私は父親に最後のお土産になるであろうと、父親へのお土産を買いたかったのだ。だが、夫は「ここで買うより、帰りの空港で買った方が安から」と言い、買わせてももらえなかった。私は海外旅行など2回しかしたことがない、夫は海外旅行には詳しい。
夫のその言葉を信じた。
だが、イザ、帰りになると、空港でもロビーによっては免税店が乏しい所があるのだった。その乏しい免税店しかないロビーに当たってしまったのだ。
父親へのお土産は決めていたのだ。
「カッコいいシャツを買ってあげたい。おしゃれな父親に、これを着て外を歩けるようになって欲しい、その気力を持ってもらいたい」と思っていたからだ。
だが、その免税店の乏しいロビーには、化粧品や、スポーツ用品は沢山あったが、紳士物のシャツを売ってる所が一件しかなかったのだった。
しかも、搭乗まで1時間もないのだ。
「お土産」全般を、夫は「ここでは買わず、空港の免税店で買った方が安い」と言い
現地で買う事を拒否されたので、自分へのお土産さえも買えなかった。
とにかく、父親のお土産を最優先にした。それで時間が終わってしまったのだった。
母親へのお土産は、仕方なく、日本に帰国してから、買ったのだった。
私は、そんな夫に腹が立って仕方なかった。
喧嘩しながらの搭乗となった。成田までの十何時間、私は夫への怒りが収まらなかった。


きっと担当したキャビンアテンダントさんも、とても不思議だったであろう(笑)
搭乗中、ずーっと喧嘩する客(笑)


そして、一睡もしないまま、私は成田空港に到着した。
すぐに、実家の横浜に向かった。だが、実家に行く前に、横浜で一泊する予定だった。
そして、チケットの都合で、海外から日本に帰国する場合、3日間だけ日本のどこにでも帰りの飛行機のチケットを無料で取れると言う。
実家には3日間しかいられないのだ。3日後には、出発した石川県に帰らないとならない。私には「たった3日間」としか思えなかった。


2001年8月31日から9月2日まで、私は実家に泊まった。
父親はとても具合が悪そうだった、足を見ると、まるで厚い靴下を履いてるかのように
足首からつま先まで、パンパンにむくんでいて、驚いた。
ベットにヨコになったままの父親に、ロンドンで買ったシャツを見せた。
「父さん、これいいでしょう?父さんに似合うよ。早く良くなって、このシャツ着て
外に出かけられる様になってね」と言ったのだ。
父親は「素敵なシャツだなぁ。ありがとうな。」と言って喜んでいたのだった。
父親は、すでに、ベットから起き上がる事さえも、困難なのだが、夫が来たと知ると
「今、美味しいコーヒーを入れてやるから、まってろ」と夫に気を使ってくれたのだった。父親からしてみたら、夫に「娘の事を頼むな」と言いたかったのであろう。


そして、9月2日、私が横浜の実家から、石川県に帰る日、身支度をしてる時だった。
その日は、父親は「通院」の日だった。
父親は「お前は何時の飛行機に乗るんだ?」と聞いてきた。
私は「4時だよ。だから、3時にはここを出ないとならないんだ」と言うと「そうか」と
父親が言ったのだ。タクシーを呼び、通院に行く父親だったが、タクシーが来ても乗ろうとしない父親。何か言いたげだったのだ。母親に「お父さん、もう、タクシーが来てるのよ!早く行って先に乗ってて」と急かされながらも「うん....」座ったまま、腰をあげようとしない父親。
そして、再三の母親のせかしから、やっと腰を上げ、玄関を出ようとした時だった。
ずっと、か細い声だった父親が、私に「ブルムン!じゃあな!」と言ったのだった。
その声は、元気だった頃の父親の力強い声だったのだ。
その声を聞き、私はハッとしたぐらいだった。
今思えば、あの一言が、父親にとって、私へのいろんな意味を含んだ最後の言葉だったのであろう。


空港へ行く時間を気にしながら、身支度をしてて、父親を見送ってあげられなかった自分を悔いた。
ベランダから、父親がタクシーの待つ道路に行く、後ろ姿を見たのが、元気な父親を見た最後となった。
その「ブルムン!じゃあな!」の言葉も、元気な父親の最後の声となった。


9月2日、石川県に行く飛行機のロビーで父親に電話した。母親が出た。
「父さんは、今日はなんでもないと、言われて、上機嫌で大好物な、お蕎麦を帰りに食べて帰ってきたのよ。全部食べてね、美味しい、美味しいって、今、疲れて寝てるから、可哀想だから、そのまま寝かせておいて。」と。


そして、9月10日、関東地方に大型の台風が上陸するるとの事で、心配になり実家に電話をした。母親が出て「父さんは、7日に入院したのよ。もう、今日からモルヒネを打つって、もう、ダメみたい。」と。
私は「なぜ、電話してくれなかったの?こんな台風が上陸する日に言われても、横浜に向かえないのに!」と怒りをあらわにした。
母は「電話したわよ。でも、出なかったから。いいわよ、来なくても」と。
私は、それでも、事が事だけに、何回も、夜中でもいいから、電話して欲しかった。
母への怒りが込み上げてきた。
私は石川県の自宅で「どうか、台風が通過し、父の元に間に合うようにしてください」と
祈るだかりだった。


夫に話をしても「じゃ、行ける所まで、これから車で行こう」でもないのだ。
モルヒネを打つと、もう、意識も混濁してしまうので、打つのは待って欲しかったし
もっと、早く入院を知らせて欲しかった。


母が電話で「あんたが帰国した日に、上機嫌でお父さんは、お蕎麦を食べて帰ったけど、その日の夜に、吐血したのよ。お父さんも自分で分かってると思うわ。」と。
そういう問題ではない。


なんとか、9月12日になって、台風も関東上陸から移動し、空港に電話をしたら
飛行機は飛ぶと言われ、その足で、すぐに、空港に向かい、横浜へと飛んだ。
なんとか、夕方に父の入院する病院に到着した。
やはり、モルヒネを打ち、父の意識は混濁した状態だった。
それでも、呼びかけると、反応はあった。
「お水が飲みたい」と父が言い、私が水を飲ませてあげた。
スヤスヤとまた、眠り始めた父。消灯時間となるため、そのまま私は実家に帰宅。
最期の「死に水」を私が父に与えてあげれたのだ。


翌日、朝、病院から連絡があり、その足で病院に行くと、昨日とは全く違った苦しそうな
父親の姿に驚く。父親に呼びかけると、反応はあり、薄目を開ける。
母親が「お父さん、落ち着いてる様だから、あんた、帰っていいわよ」と言う。
それを聞いた看護師さんが「待って下さい、今日が最期になると思うので、そばに居てあげてください」と。
午前中、先生の回診までは、なんとか、父も意識に反応があったのだが、昼に近づくと
先生が点滴に「アレルギーを抑える薬です」と言い、点滴の液に注入した。
段々と、呼吸は収まるも、心電図のアラームが鳴ったり、消えたり、脈も弱くなってきた。


そして、私の新婚旅行から帰るのを、待ってたかのように、9月13日11時に父は他界したのだった。
唯一の救いは、父親に「死に水」を与えてあげれた事。
胃がん肝臓転移であったが、最期はさほど苦しまず、旅立たせてあげれた事。だった


私は父親の事が心配しながらの、新婚旅行。
夫は前の奥さんの死を知った後の、新婚旅行。
全く楽しくない新婚旅行だったのだ。