Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

もうすぐ6月

この時期になると、思い出す事がある。


2001年6月に私が「入籍」するために、5月は引っ越しの準備に多忙だった。
丁度、父親が「抗がん剤の治療」のため、薬を服用したが、副作用で危なかった時期。
「あと、数日遅かったら、間に合わなかったです」と医師に言われた入院。
やっと、その入院から奇跡的に助かり、退院した時期。
私ひとりで、引っ越しの荷造りをしてる姿を見た父親が「お父さんがこんな体調になって
おまえの引っ越しの手伝いもできなくて、すまないな」と申し訳なさそうに言った父。
父親の余命が3か月だと知りながら、なんとか、父親に生きる希望を持って欲しいと
余命を告知せず、娘の入籍を楽しみに変えて欲しいと思った時期。
夫になる彼が、妻になる私の引っ越しに、一度も手伝いにも来ない事を、父親が初めて
怒りをあらわにした時期。
「結納も、結婚式も、披露宴も、ウエディングの写真も無し」と、夫になる人に言われて
父親が「誰にも祝ってもらえないのは、可哀想だから、お父さんと母さんとで、おまえの
結婚を祝ってあげたい。本来なら、3人で外で食事しながらお祝いしてあげたいが、お父さんが、こんな体調になってしまい、退院したてで、外に出る事も、外で食べる事も出来なくて、ごめんな。せめて、家でお前の好きな物をお母さんに作ってもらうように頼んだから、3人で食べよう」と父親が言ってくれた時期。
胃がんで父親はとても食べれないのに、3人で食事の時「祝い酒」を少し飲んでくれた。


夫になる人の北陸に行く前に「花嫁道具ぐらい持たせてやりたいけど、お父さんが
こんな病気になり、これから、どれだけ入院費がかかるか分からないから、おまえに
持たせてあげれなくてすまないな」と申し訳けなさそうに「ご祝儀」を私に渡してくれた。


夫になる人の北陸に行く時「羽田空港まで送ってあげれなくてすまないな」と申し訳け
なさそうに言った父。
「お母さんが、羽田空港まで見送りに一緒に行こうか?」と言ってくれた母。
父親ひとりの時、急変しないかと、母親には父親のそばに居て欲しかったから、平気じゃ
ないのに「ひとりで行けるから大丈夫だよ」と、両親を安心させようと必死だった。
「もしかしたら、これが父親を見る最後かもしれない」と思いながら、自宅から羽田空港まで行く道で、涙が出てきた思い出。


父親との子供の頃や、実家を引っ越した時の思い出。
8年付き合った彼との悲しい別れの思い出。
いろいろな思い出が浮かんできた。


まさか、私自身が、これから壮絶な人生を歩むために、歩いて行ってるとは思いもしなかった。晩婚だったが、まだ、当時は30代だった。


今思えば、巻き戻せるなら、この頃に戻り、結婚をしなければ、私も厄介な病気にもならずに済んだのかもしれない。
余命短い父親の看病も、そばに居て、やってあげれたかもしれない。
難病の母親の代わりにやれることが沢山あったのかもしれない。
母親を休ませてあげる事もできたのかもしれない。


もっと言えば、8年も付き合って別れた彼と、付き合わなければ、きっと別の人生があったのかもしれない。
「まずは自分のため、自分のこれからの人生のために、何をするか」と選んだ方が
良かったのだろうと思う。


きちんと、相手の両親にもお祝いされるような結婚が出来たのかもしれない。
今頃は、きっと、子供も生まれ、その子も成人になっていたかもしれない。
もしかしたら、孫もいたかもしれない。


後悔しても仕方ないのだが。
どうして、私は自分の進む道がいつも、悪い方向へと行ってしまうのだろう?
と思ってしまう。


これも「運命」なのだろうか。


今は両親を亡くした事で、唯一救われる事は、3歳で他界した兄の元に、やっと行けたんだと思う事。あれだけ、会いたがっていた兄と今度は「家族3人」できっと、楽しく天国で過ごしてくれてるのでは?と思う事。


これからは、私を守って欲しい。
持病が悪化しない様に、これからの人生、これ以上病気にならず、元気で健康に過ごせる様に。
これ以上、経済的に困窮しない様に。
自信を持てるように、仕事ができます様に。


そして、頑張ってくれた父と母に「ありがとう」と言いたい。