Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「母」の最期

2015年春に母は入院して、初夏に退院した。
病院から特養のマイクロバス(車椅子のまま乗れる)が迎えに来た。
私は、そのバスに同乗して、特養に到着するまで、話しをした。
「かあさん、退院できてよかったね。もっと、元気になったら、三崎に母さんの
大好きな、マグロ、食べに行こうね!」と言うと、母は「うん!食べたいね」と
言った。


なんとか、母も頑張ってくれた。
8月になり、母の誕生日が来た。
特養に、母の大好きな「イチゴのショートケーキ」と「紅茶」と「パジャマ」のプレゼントを持って、面会に行った。
母は、パジャマのプレゼントに喜んでくれた。「見える所に飾っておいて」と言う。
そして、イチゴのショートケーキを「美味しい」と言って食べた。
毎回、母の誕生日と、母の日には、イチゴのショートケーキを買って、一緒に食べた。
この時は、完食はできなかった母だが、半分食べた。
「じゃあ、また、来るね」と言って、特養を後にした。


それから、数日後、特養の看護師から電話が来た。
「おかあさんが、苦しそうで、酸素マスクをしたのですが、なかなか血中酸素が上がらず
背中が痛い、腰が痛いと言ってるんです。また、誤嚥性肺炎や心不全の兆候かもしれませんので、救急搬送しますか?とりあえず、娘さん、来て下さい。」と。
すぐに、私は特養に行った。
母が私を見ると、息苦しそうに「ブルムンちゃん、苦しいの、腰が痛くてたまらないの」
と、弱音を吐かない母が、私に必死に訴えてきたのだ。相当苦しいのであろう。
すぐに、救急車を呼び、救急搬送をしてもらう事にした。
救急搬送だったので、救急隊員が「以前、入院した病院にしましょう」と言い
あの「お金を要求」した、公立病院だった。病院に行くことになってしまったのだ。


また、あの担当医だ...........
母は8月の終わりまでは、意識もあったし、見舞いに行くと、会話もできた。
母は「手が痛い」「足が痛い」と言う。
私は毎日、母の見舞いに行き、母の手をさすってあげた。
母は右手をさすり終わると「こっちも」と言わんばかりに「左手」も出してきた。
母は手をさする私の手を、握ってきたのだった。


こんなに、母の手をさすってあげたことは、今まであっただろうか。
膠原病からなる、手足の冷えをいつも抱えてた母。
冬になると、私は手袋と貼るホッカイロをいつも、母に買って渡していた。
それでも冷たい時に、母の指先をマッサージしてあげてた。
すっかり、骨と皮になってしまった、母の手。
バスタオルを敷き、その上に寝ていた母。
寒くなると可哀想なので、自宅から大き目のバスタオルを持ってきて敷いてあげた。
やせ細り、内臓はどこにあるの?と思うくらい、ペタンコなお腹。
肋骨だけになってしまった胸。
大き目なバスタオルだけで、すっぽり埋まってしまう身体。


母に「母さん、来たよ。」と言うと、ニコッと笑う。
手足をさすり、洗濯物を持って自宅に帰る。
いつも帰る時には「母さん、がんばろね。」と声をかける。
母はニコッと笑い「うん」と言い、いつも「ハイタッチ」して帰るのだった。


そんなある日から、母は上を向いたままになった。
声をかけても、目だけ動く。
そんな母が私に「あんた、いくらお金持ってるの?」と聞いてきた事があった。
意図は分からない。
そして、母から帰りに「ネコちゃんによろしくね」と言ってきたのだった。
私はびっくりした。
だが、母が最期に発した、言葉だったのだ。
次の日、私は母が飼っていたネコの写真を、携帯で撮り、それを母に見せたのだ。
母は、じっと見ていたが、あまり反応はない。


そして、「母の被害者としての裁判」の判決が出た時、母に「かあさん!左足の裁判勝ったよ!」と報告した。母は「うん」とうなづいた。
母が生きてるうちに、報告できた事が、うれしかった。


母は「禁食・禁飲」となっている。
今までの様に、高カロリーの輸液も、頸部の太い血管から入れられないそうだ。


あの担当医から「今回の入院で最期になるでしょう。回復するビジョンが見えない」と
言ったのだった。
治療をビジョンで見られては困るのだが。


そして、9月に入ると、母は意識も反応もなくなってきた。
声をかけても反応もない。
ただ、上をじーっと見てるだけ。
手をさすっても、反応もない。
そして、目をつぶってしまう。


9月中旬は、父親の命日だ。
お墓参りに行ってきた事を、ノートにマジックで書いて、母に見せた。
母は、そのノートをじーっと見てるが、反応はない。


そして、その父親の命日の4日後
入院先の病院から連絡が来た。
「お母さんの意識もあまり良くないので、病室をナースステーションの隣にしました」
との報告だった。
すぐに母の見舞いに行った。
母は横向きになっていた。
「母さん、来たよ。」と声をかける。
反応はない。いつもの通り、手をさすり、いろんな話しを耳元でしてあげた。
「また、明日来るね。」と言って病室を出る。


そして、次の日、午前中「お母さんの血圧が測れなくなったので、すぐに病院に来て下さい」と連絡があった。
すぐに病院に行く。
看護師さんが「今は、また、安定してきたので大丈夫ですよ。」と言う。
母に「母さん、来たよ。」と声をかける。
母は横向きに寝ている。右目はつぶり、左目だけは開いていた。
すぐに看護師さんが来た。
「お母さん、今日が最期かもしれません。意識はなくても、耳は聞こえますので、話かけてあげて下さいね。」と。
母に「母さん、ごめんね、私がひとりになるのが可哀想だからって、頑張って頑張って
生きてくれたんだよね。なのに、私は何も母さんにやってあげれなくって。本当にごめんね。」と言った。


看護師さんが来て「もう、安定してるので、大丈夫ですから、お帰りになっても良いですよ。ただ、いつ急変するか分からないので、いつでも連絡が取れるようにしておいてくださいね。」と。


私が、その病院から、徒歩圏内で行ける自宅だったので、一旦帰宅した。


そして、お昼すぎ頃、病院から連絡があった。
「お母さんの血圧が下がっていますので、すぐに病院に来て下さい。」と
私は、すぐに病院に行った。
ナースステーションの隣の病室の前で、看護師さんが待っていた。
「娘さん....遅かった....あと5分早かったら.....息を引き取ったばかりだったの....」と。


病室に入り、母を見た。
仰向けになり、目は開いてる、心電図のモニターが、赤く光り、けたたましい音を出してる。
「これは、心臓が微弱に動いてるんです。ドラマで見るような、直線になかなかならないんですよ。たまに、心臓もいきなり動きだす事もあるので、このまま様子を見ましょう」と言っていた。
私は夫に連絡を取ってあり、夫から「今、そっちに向かってるから」とメールが入る。
看護師さんが「ご主人は?」と聞くので「今、こちらに向かってるそうですが、遠いので
1時間はかかると思います。」と言った。


看護師さんは、私に「大丈夫?」と頻繁に声をかけてくれる。
私は、最期の最期の母の姿を見るのが、とても怖かった。
覚悟はしていたものの、たったひとりで、母の最期を看取るのが、怖かったのだ。
私は、口では「大丈夫です」と言うものの、倒れそうだったので、椅子に座った。


母の心電図の警告音が、なったり、止まったりする。
父親の時とは違った。


私は心の中で「母さん、もう、頑張らなくていいんだよ。私はひとりでも大丈夫だから。
もう、父さんと、お兄ちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんが、迎えに来たんじゃない?
遅れない様に、ちゃんと、みんなの後をついて行くんだよ。」と、つぶやいた。


この状態が、一時間続いた。
あの担当医も見にきたが「死亡宣告」をしないのだ。


母は、きっと、夫が来るのを待っていたのかもしれない。
完全にひとりぼっちになってしまう私の事を「娘をお願いしますね」と言いたかったのかもしれない。


そして、やっと、夫が到着した。
「間に合わなかったよ」と言うと、夫は母の顔を両手で囲み「お義母さん」とつぶやいた。
そして、すぐに、母の心電図のけたたましい音が、鳴り続き、心電図の線が動かなくなったのだ。


15時07分、担当医は「死亡宣告」をした。
私は「母さん、今までありがとう。母さんは、本当に、頑張ったね。もう、向こうでは、痛みもなく、苦しくもないからね。安心してね。」と心の中でつぶやいた。


父親の時と同様、私には「泣いてる暇はない」と思った。
これから、母を葬儀屋さんに連れていかねばならない。
すぐに、看護師さんが、母を着替えさせに来た。
「お母さんは、食べれない、飲めないのに、なぜか、一昨日、便が出たのよね。」と言った。よく、人間最期には、何も食べなくても、便が出ると聞く。宿便が最期出るそうだ。


母は白い服に着替え、入れ歯も居れて、化粧もしていた。
看護師さんが母の顔を見て「なんだか、笑ってるみたいね」と言う。
確かに、母は笑ってるように見えるのだった。
私は「きっと、3歳で亡くした息子が迎えに来て、それで笑ってるのでしょう。」と言った。


そして地下の「霊安室」に向かった。
母の身体はまだ温かい。
私は葬儀社に電話をしたり、親せきに電話で連絡したりした。


霊安室で、私と母が二人になった時、こころの中で母に言った。
「かあさん、三崎のマグロ、食べに連れてってあげれなかったね。ごめんね。
もっと、もっと、早く、連れて行ってあげれば良かったよ、本当にごめんね。
かあさんは、あまり、外に行けることが少なかったもんね、もっと、沢山、いろんな
所に連れて行ってあげて、いろんな景色を見せてあげたかったよ。ごめんね」と。


唯一、救われたのは、母の誕生日を一緒にお祝いできた事だった。


そして、私は幼稚園前からの大親友に電話をした。母が亡くなったことを言った。
電話口で、親友は泣きながら「あんたは、本当によく頑張ったよ!お母さんも頑張った!
お母さん、絶対にあんたに感謝してるから。」と泣きながら言ってくれたのだった。
私も、なぜか、その親友との電話で、嗚咽するように泣いてしまった。
「ありがとうね。でも、私、泣いてられない。これから母を納骨するまでは、まだ頑張らなくてはならないんだ」と言った。
親友は「そうだね、手が足りなければ、いつでも言ってきて。」と言ってくれた。
しばらく、外に居て、頭を冷やした。


母の口癖「あんた、帰るの遅くなるから、もう、帰っていいわよ。」と、いつも心配
していた母。最期も、母らしい最期だったのかもしれない。

葬儀社の車が到着した。
母の遺体を乗せて、私も同乗した。
担当医と、看護師が、来て、深々と頭を下げた。
私は「この担当医の前だけは、絶対に涙など出すものか」と思っていた。


葬儀社の車が、今までいた「特養」の前を通って、遠回りをして、葬儀場まで行って
くれたのだった。
特養の前まで行く途中の道、母が退院するたびに、この道を通り、母といろんな話しを
した事を思い出した。つい、数か月前に退院した時、この道を通ったとき、三崎のマグロを一緒に食べに行こうと言った時の、母の嬉しそうな顔を思い出した。
私は隣の席で、白いシートに包まれている、母の遺体の手に自分の手を乗せた。
そして、特養の前に来たとき「かあさん、みんなとお別れだね。かあさんも、仲良くなったひとを、何人も見送ってきたものね、きっと、みんなも、見送ってくれてるよ。」と
こころの中で母に言った。
私は、心遣いをしてくれた葬儀社の方に「ありがとうございます。」とお礼を言った。


母の死亡宣告をした時、担当医が私に言った。
「お母さんは、今まで、何度も何度も手術を繰り返してきた。
ただでさえ心臓の弱いお母さんには、その繰り返される手術で、より心臓に負担がかかったのでしょう。」と。
これは、この担当医だけではなく、他の病院に入院した時も、同じことを言われた。

母の心臓により負担をかけた手術。
水漏れされた事件で、家具が水を吸い、家具の下敷きになった母。
それから、手術を繰り返した。
右足の切断も、医師の過診で、壊疽し、切断になった。
左足の切断も、介護ヘルパーの、過失で、切断になった。
母本人が、どれだけ、悔しい思いをしたか、苦しい思いをしたか。
私は、この人たちを、許す事は出来ない。
私は「因果応報」を言う言葉を信じる。