Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「父」の病気

1999年秋から冬ぐらいからか、ある日、父親の「咳」がひどく、気になっていた。
父親は喫煙者だったため、自分でも「お父さんはきっと肺ガンになる可能性は高いだろう」とよく言っていた。
あまりに、咳がひどいためか、医者嫌いだった父親が「お父さん、病院に行ってくるよ」と2000年の5月ごろ、自ら言ってきた。
高齢ではあったが、父親は今まで大きな大病もせず、血圧だけを測りに「かかりつけ医」に月に一度程度、通院してたぐらいだった。


通院から帰宅すると、父親が言った。
「先生のところで、胸のレントゲンを撮ったら、すぐに紹介状を書くから大きな病院に行きなさいと言われたんだよ。等々、くるべきときが来たかな?」と。


数日して、すぐに「呼吸器系」の大きな専門病院に行った。
すると、そこでも細かく、検査をしたらしい。
担当医から説明があったそうだ。
病名は「間質性肺炎」
原因は不明な難病である。
かの有名な「美空ひばり」さんもこの病気だった。
画期的な治療法は無い。
強いて言うなら「ステロイド剤を飲む」ぐらいだそうだ。
そのステロイド剤も、入院してその人にあった容量を観察するそうだ。
父親も、すぐに「入院」して、ステロイド剤を飲む治療となった。

入院に付き添って一緒に行った。
入院しても、几帳面な父親は、入院中の食事や薬を手帳に細かく書いていた。
見舞いに行くと、まだ元気だった父親は、病室でいろんな話しをした。
父親は私が帰る時間になると、決まって、点滴をつるす棒を押しながら、病室の出入り口
まで、私を見送ってくれた。「寒いから帰りに靴下でも買って温かくしろよ。」と言い
少ない年金の中から、私にいつも3千円を渡してくれるのだった。
「寒いし、暗くなるから、気を付けて帰るんだぞ。」といつも言ってくれたのだった。


ほどなくして、父親が退院することとなった。
退院してから、父親が「なんだか、全身が痛いんだよ」と言い、かかりつけ医に行った。
すると「帯状疱疹かもしれないから、すぐに、皮膚科に行きなさい」と言われたのだった。2000年の年末近くだった。父親は痛みに耐え、タオルを温めては顔に当てていた。
皮膚科に行くと「帯状疱疹だから、すぐに、入院しなさい。大学病院に連絡しておきます」と言われたそうだ。
当時、私は仕事をしていたため、父親に付き添う事が出来なかった。


2001年の1月、寒い日に、父親は入院した。
「帯状疱疹」の場合、いわゆる「隔離病棟」になる。
原因はステロイドの服用によるものらしい。
寒い日に、母親と二人で父親の見舞いに行った。
大学病院の最上階にある、3つほどの個室の病室に、家族と団らんできる待合室がある。
その隔離病棟の中だけは、どこに行き来しても良いらしい。
父親は元気だった。その待合室の窓は大きく、海がよく見えた。
父親が「待合室から見る海は、とってもキレイなんだよ」と、私と母親を案内してくれた。あまり無理させられないため、病室に戻るが、病室からの窓も大きく、ヘリポート
がよく見えた。
「あ、雪が降ってきたよ。」と私が言うと、父親は「雪が降ると帰るのが大変だから、早くお前たち帰りなさい。気を付けて帰るんだぞ。お父さんは大丈夫だから。」と言いながら、また、隔離病棟の出入り口まで、私と母親を見送ってくれた。


そして、痛みも治まってきたので、退院となった。
だが、2月ごろ、すぐに、また、呼吸器の病院に入院することとなる。
「間質性肺炎」の状態を見るレントゲン検査を撮ったのだが、そこに、肝臓に「影」が
あると、主治医の先生が母親だけに言ったそうだ。
「肝臓がん」主治医の先生は「肝臓がんが先発ではないであろう、きっとどこかの内臓に
先発の癌があり、肝臓へ転移したのではないかと思う。精密検査をする。まずは胃カメラで検査をするのだが、ここは呼吸器の専門病院のため、胃腸科の先生は週に1度来る。
その時に、胃カメラの検査をします。」との事だったそうだ。


そして、胃カメラの検査をし、結果待ちとなった。
3月に、父親は退院した。
父親が私に言った。「担当の先生が、おまえに話したいことがあるらしいから電話してみてくれ。」と。イヤな予感がした。
私は、仕事の帰り道、駅の公衆電話から、担当医に電話をした。
「先日、お父さんの胃カメラの検査をしました。結果なのですが、やはり、胃がんでした。たぶん、これが先発で、肝臓に転移したのでしょう。お父さんに告知しますか?」
と言われた。
私は「そうですか、今後の治療はどのようになりますか?手術とか?」と聞くと
「手術は間質性肺炎もあるので、難しいでしょう。体力的にも。今後は癌は外科領域なので、外科の病院を紹介しますから、そちらに転院してください。
お父さんの胃がんは、厚みがすでに2センチあります。胃がんの場合は厚みで進行状況を判断します。肝臓への転移の癌の直径はすでに3センチあります。」と主治医。
私は「手術が無理な場合、どうなるのでしょう。余命何年とかになるのでしょうか?」
と聞くと、主治医は「いえ、余命は数か月単位と考えてください。早くて3か月遅くても
半年でしょう。」と主治医。
私はショックだった。全身から血の気が引くのが分かった。
私は「余命宣告は、父親にはしないでください。しっかりしてるように見える父親ですが
意外と、動揺してしまうので。」と言ったまでは覚えている。


父親の主治医との電話を切り、そのあと、どうやって自宅まで辿りついたのか記憶がない。とにかく、頭の中は「どうしよう」「私が6月に入籍する前に父親が死んでしまう」
「どうやって父親に説明しよう」「なんで、働き詰で、やっとこれから老後を謳歌しようとする父親に、こんな仕打ちが?」「もっと、私が早く気が付いてあげていれば」などなど、頭の中はグルグルと回っていた。
気が付くと、自宅玄関前に居た。
いつもなら、玄関のインターフォンを鳴らし、母親がカギを開けてくれる。
家の中に入り、手洗いうがいをすまし、着替えて、家族で夕飯を食べる。
だが、この日ばかりは、自宅玄関前に居ても、インターフォンのボタンを押せなかった。


父親の顔をまともに見れない。逆にいつもと同じようにしないと、感の良い父親のことだ
何か担当医に言われたと思われてしまう。担当医からの話しは何かと聞かれたら何と言おう。ここまで担当医に父親も言われて、そらぞらしく「胃潰瘍」だなんて言うのも変だ。
私の頭の中をいろいろな事が駆け巡った。


そして、インターフォンのボタンを押した。
父親はこたつに座り「ブルムン!お帰り!寒かっただろ?早く手洗いして、こたつに入れ」と笑みで迎えてくれた。私も笑顔で「ただいま」と言うのが精一杯だった。


着替えて、夕飯を食べる時、父親が「担当医に電話してくれたか?」と言ってきた。
私は「あ。。。とうとう来たか。。。。」と思いながら、「うん、電話したよ」と。
父親は「先生、なんだって?」と聞いてきた。
「うん、この間の胃カメラの検査の結果が出たらしいんだけど、どうやら、とうさん
初期だけど、胃がんらしいんだよ。それで、これから、その胃がんを、手術して取るか
抗ガン治療をするか、家族で話し合って欲しいって言うことらしいんだよ」と言った。
自分でも驚くかのように、それらしい内容が、勝手に口から出てきたのだ。
父親は「そうか。そういう事だから、娘のお前に話しがあると先生は言ったんだな」と
父親は納得した様子だった。


父親は「手術で治るなら、手術して一度で取ってしまった方がいいな。」と言う。
私は「うん、でも、とうさんの場合、間質性肺炎があって、手術ができる体力があるか分からないから、今は初期だし、抗がん治療をしながら、手術に耐えられる体力を温存して
置いた方が良いかもしれないって、先生は言っていたよ。なにせ、肺の細胞検査だと簡単に思っていたら、肺の皮膚と背中の皮膚が癒着してて、10時間の大手術したからね。」
父親は「そーだよな。まだ、手術の傷跡は残ってるしな」
私は「あの時も、分かって良かったんだよ。助かったよね。」
父親は「うん、本当に先生には足向けて寝れないな。まぁ、そのことは、先生とよく話しあって、方針を決めていくよ。」
私は「うん、その方がいいよ。今回も癌でも初期で良かったね」
それで、話しは終わり。私は、ホッとした。


問題は、母親だった。
母親は父親が居ない時、私に言ってきた。
「お母さんは、告知しないことに反対よ。お母さんはとても嘘つけないし、黙ってられない。」と。
私は「もし、とうさんが知れば、前向きに治療に専念しようと思わないよ!それでもいいわけ?」
母親は「おとうさんは、強いから大丈夫よ。」
私は「とうさんは、強そうに見えても、かなり動揺するよ。現に私が喘息で救急車で運ばれた時、救急隊の人が、住所と電話番号を言って下さいって聞かれたら、全く違う職場の住所と電話番号言ったんだよ??私の方が、ゼイゼイしながら、ここの住所と電話番号を言ったんだからね!」と言った。
母親は「とにかく、お母さんは告知しないことには反対よ!」と。
後々、母親は、信じられない言動を父親の前でしたのだった。

母が父がいる目の前で、私にこう言ったのだった。
「あんた、喪服ないから、喪服作っておきなさい」と。
父親が胃がんの初期だと告げたばかりなのに、そんな父親の目の前で母親が言ったこの
言葉に、とても怒りを感じた。
父親はとても感の良い人だ。母親のその言葉で、実は自分の死は近づいてると思ったら
今まで、決死で父親に告知をせず、頑張ってきたことが台無しだ。
母親はまるで、父親に間接的に「娘の喪服を作るということは、あなたの死は実は近いのよ。」と言わんばかり。
これは、母親の無神経さなのか、告知しない私への当てつけなのか、分からない。
後に、父親が他界してから、母親の父親への恨みが深かった事が分かったのだった。


そして、これから、父親の過酷な闘病生活に入るのだった。