Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「母」の難病と初めての介護ヘルパー

2001年9月に父が他界し、その後は、母はひとりで生活することとなった。
私は石川県に住んでるため、なかなか頻繁には会いには行かれなかった。
それでも、近所の方々が、母がひとりで住んでる事に、気を配ってくれた。
中でも当時の「自治会長ご夫妻」は、本当に気にかけてくれた。
丁度、自治会長さんが、父の戦友でもあったためであろう。
奥さんも「夫を亡くしてひとりだと、気が紛れないから」と言っては
食事のおかずを作って持ってきてくれたり、話し相手になってくれた。
自治会のお金の管理も、母に任せてくれた。
母は、そんな周りの方々の気持ちに感謝しながら、前向きに生活していた。


そんなある日、買い物から帰ってくると、よく胸のあたりを、トントンと叩くしぐさが多くなった、かかりつけ医に診てもらうと「循環器の専門病院に行って検査をしてもらって下さい」と言われた。
すぐに、父が通院していた専門病院には循環器もあり、その病院に検査をしに行った。
「心臓には太い冠静脈が3本ある、そのうち、2本の3か所に、血栓が見られる。
これは、太い血管から管を入れて、ステンレスの網を血管に装着して広げる手術をしないとならない。出来た血栓は、その場で削る。事前の検査で入院し、手術で入院し、一度には3か所はできないので、一か所ずつ手術をすることになります。」との事だった。


母がよく胸をトントンと叩いていたのは、軽い狭心症を起こしていたためだった。


母は「膠原病」と言う難病を患っていた。
この病気になったのは、1990年ごろにハッキリと病名が判明した。
この当時のかかりつけ医は、リウマチの専門の先生でもあった。
このかかりつけ医からは「この病気はまだ特効薬もない、現状を保つしかない。
あとは血圧を上がらないように薬を飲むしかない」と言われていた。
だが、のちのち、他の大学病院で医師は「いや、当時も膠原病の薬はありますよ。
なんで、膠原病の薬を処方されていなかったか、何十年も。」と言われたのだった。
それまでは、どの病院に行っても「肝臓が悪い」としか診断されなかった。


この病気の特徴は、リウマチの様に手足の指の関節が曲がってしまう。
心臓より遠い頭部、手足の指先に、酸素が行き届かず、血液の循環も悪くなる病気だ。
冬になると、手先の指は、まるで蝋人形のような色になってしまう。
足は常に冷たく、何枚もの靴下をはき、張れるホッカイロを常に腰と足に貼っていた。
足の親指は、外反母趾の様に曲がり、ひとさし指の上にあるため、歩行も思うようにはいかなくなった。


手先の指も曲がってしまうため、料理をするのに、包丁や片手鍋などは持ち辛い。
調理するのも困難になった母は、介護保険で介護ヘルパーをお願いすることとなった。
当時は「要支援」があったため、母は「要支援」の介護を受けれる事となった。
おもに「家事援助」などだった。
買い物は、母本人がスーパーに行って自分で見たいと言うので、掃除と調理をお願いした。当時の介護ヘルパーさんは、とても良い方に恵まれた。


後に、この介護保険での介護は、いろいろと問題があり難しいと思った。
このことは、のちに書こうと思う。


そんな平穏な日々を暮していた母だったが、ある出来事から生活が一変するのだった。