Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「父」の最期

2001年6月、私は「入籍」を済ませた。
報告を兼ねて、実家に行き、後ろ髪を引かれる思いで、石川県と戻った。
毎日、実家に電話をすれば、また、父親に感ずかれる。
気持ちを抑えて、2日置き、3日置きに実家に電話をして、父親の状態を聞いた。


6月になり、夫の出張で香川県に行ってきた。私も同行した。
初めて行く場所。かと言ってひとりで観光する気も起きない。
「さぬきうどん」がお土産屋さんにあった。
すぐに、実家に送った。
もう、食欲もない父親に、うどんなら食べれるかもしれないと思った。
送った事を実家に電話をした。
母親が出てこう言った。
「もう、何も送ってこなくていいから。特に食べ物は、お父さんも、もう食べられないから、可愛そうだから。」と。


他にも、出張があると、同行した。
行く先から、実家に電話をして、父親と話しをした。
父親は「今度はどこだ?一緒に出張先についていけよ。」と。


そして、何度か実家に電話し、父親に変わってもらうことがあった。
「お前は、新婚旅行はいつ行くんだ?」と聞いてくる。
「8月15日ぐらいから、9月3日には日本に帰ってくるよ。」と。
「そうか」と父。
父親と電話で話しをすると、いつも、この事を聞いてきた。


そして、8月15日、新婚旅行でヨーロッパに行った。
また、この旅行でも、夫とは、いろいろあった。
まさか、この時、夫は愛人に連絡してるとは、夢にも思わなかった。
本来なら、楽しい新婚旅行なはずが、夫は愛人の事、元妻の事が気になり、私は父親の
事が気になり、全く楽しくない、心ここに非ずの状態の新婚旅行だった。


海外旅行をすると、国内線の航空券もタダになるらしく、日数が決められているが
実家に帰り、泊まる事ができた。
9月1日に実家に帰り、3日には、石川県に帰らないとならない。
私だけ、実家に帰り、夫は1日に実家により、仕事があるからと、翌日には石川県に帰った。


父親へのお土産、おしゃれだった父親に「英国のシャツ」を買ってきた。
「とうさん、早く元気になって、このシャツを着てね。」と渡した。
父は、喜んで、パジャマの上から羽織った。「似合うか?」と嬉しそうに。


ふと、足を見ると、まるで像の足のように、むくみがひどかった。
「足が痛くてたまらないんだよ」と。
腹水が足に出る事もあるらしく、父は足に出てしまったのだ。
素足なのに、まるで、靴下を何枚も重ねて履いてるかのように、痛々しかった。
「おまえは、いつ、石川に帰るんだ?」と父
「3日には石川に帰るよ。」と私
「そうか、3日はお父さんは、通院の日だ。。。見送れないけどすまんな」と父。
「いいよ、そんなこと気にしなくて、とうさんは治療に専念して」と私。
「なんだか、食べられないんだよ.....困ったな」と父。
とても、辛そうだった。


そして、9月3日、私が石川に帰る支度をしてる時、丁度、父は通院のためにタクシーが来るのを座って待っていた。
母親が「おとうさん、何してるの?もう、タクシー来てるのよ。早くして」と。
父は、腰を上げるのを、なんだか、ためらっていた。
そして、やっと、重い腰を上げ、玄関を出る時に、私に言ったのだ。
「ブルムン、じゃあな!」と。
その声は、今まで、か細い声とは違い、力強い声だったのだ。
その声を聞き、なぜか、私はハッとしたのだ。
すぐに、父親の後を追い、玄関に出た。
すでに父親は廊下を歩き、下に向かう時だった。
父親が歩く姿を見るのが、これが最後だとは思わなかったのだ。


今思えば、この一言には、父親が私に言いたかった事すべてが込められていたのだと。


そして、空港に着き、搭乗まで時間があったので、実家に電話をした。
母親が出た「今日はね、先生が異常ないですよ、と言われて、お父さん喜んでね
帰りに、お蕎麦屋さんで、お蕎麦食べたのよ。美味しい美味しいって完食よ。」と。
それを聞いて、私はとてもうれしかった。
食べれれば、まだ、とうさんは大丈夫だ!と。


そして、9月10日、関東地方に台風が上陸すると天気予報でやっていた。
心配になり、実家に電話をした。
母親が出た。
「おとうさんね、7日から、入院してるのよ。もう、ダメみたい。今日からモルヒネを打つって先生が言っていたわ。」と。
「なんで!連絡してくれないのよっ!こんな台風が上陸するのに、行けないじゃない!」
と私は、母親に怒ったのだった。
モルヒネを打ってしまったら、もう、意識もまばらになってしまうからだ。
意識がちゃんとしてる時に、父と話しがしたかったのだ。
「したわよ、でも、電話に出なかったから.....」と母。
「その時、出なくても、夜中でもなんでもいいから、電話してよっ!」と私。
「いいわよ、来なくても。」と母。
すでに、私はこんな調子の母親に対して、怒りがあった。


そして、9月11日関東に台風が上陸、飛行機も飛ばない、高速道路も封鎖。
父の元に行ける手段がないのだ。
9月12日、空港に朝電話をする。飛行機は飛ぶと言う。すぐにチケットを取って空港に
行った。とは言うものの、羽田空港から来た飛行機が、今度は小松空港から羽田に折り返すため、朝と言っても、10時は過ぎてしまうのだ。
なんとか、羽田空港に到着した。
そこから、実家に荷物を置くために、実家まで2時間はかかる。
お昼を過ぎてしまった。そして、父親の病院へ。
すでに、夕方近くなってしまった。


父親はナースステーション目の前の個室に居た。
心電図を付け、モニターはナースステーションで見れるようになっている。
父親はベットで、スヤスヤと寝ていた。モルヒネが効いているのであろう。
父親に「とうさん、来たよ」と声をかけると、薄らと目をあけ、うなずいた。
すぐに目を閉じ、また、寝る。
父親の寝顔を見ながら、ずっと、子供のころの事を思い出していた。
「とうさん、ありがとうね。いろいろとうさんとは喧嘩したけど、とうさんはよく
家族のために頑張って、働いてくれたよね。自分は食べなくても、母と私にはいつも
ひもじい思いだけはさせまいと、頑張ってくれて、本当にありがとうね。
何もやってあげれなくて、親孝行できなくて、本当にごめんね。」と心の中で何度も言った。


しばらくすると、病院の夕食の時間が来た。
たぶん食べる事ができないであろう、父に「とうさん、夕食が来たよ、食べる?」と
言うと、父は目を覚まし「うん、食べる」と言った。
私はベットを少し起こし、父におかゆを少しずつ食べさせてあげた。
父は私の顔を、じーっと見ながら、おかゆを少しずつ食べた。
「もう、要らない」と言う父。「おかずは?」と聞くと「要らない」と首を横にふる。
「じゃあ、ヨーグルトあるけど、食べる?」と聞くと「食べる」と言う。
病室の冷蔵庫から、ヨーグルトを出し、スプーンで少しずつ父親の口に入れてあげた。
父親は「美味しい、美味しい」と言いながら、のどをごくごくと鳴らしながら食べた。
そして「もう、要らない。水をくれ」と言う父親。寝たまま飲める急須のような物に
冷たい水を入れて、飲ませてあげる。ゴクゴクと父はお水を飲んだ。
そして、父が私に「なんだ、おまえ、来てたのか?」と言うのだった。
私は「やだ、さっきから、ずっと居るよ」と言うと「そうか」と言って父はまたベットに
横になって寝たのだった。
モルヒネで、もう、記憶もバラバラになってしまっているのであろう。


病棟の消灯時間も近づいてきた。
父親はスヤスヤと寝ている。
起こしてしまうのは可愛そうだと思い「とうさん、帰るからね、また、明日来るね」と
言って、ナースステーションに帰る事を言った。


今まで、父親が入院した時、私が帰る時間になると、決まって、出入り口まで見送って
くれた父親。「暗くなるから、気を付けて帰るんだぞ」と言いながら。
だが、今回は、それが無い。病室を出て、病院の出口まで行く長い廊下がある。
その廊下の突き当りを、左に曲がると病院の出入り口になる。
なぜか、その日だけは、その長い廊下の突き当りになる手前で、ふと、後ろを振り向いた。父親が病室の出入り口を、ふと見たのだった。当然、見送りなどできる状態ではない。でも、自分でも分からないが、なぜか、この日だけは、ふと、後ろを振り向いたのだ。


そして、翌日、私は何だかイヤな予感もあり、寝つけなかった。
朝6時ごろ、固定電話が鳴った。母親が出た。
相手は、石川県に居る夫からだった。
母親が「今、あんたの旦那からで、お父さんの入院先の看護師から電話があり、血圧がもう測れない様態なので、すぐに病院に来てほしいって、夜中の3時ごろ電話があったらしいの。看護師が何度も、自宅に電話してもつながらないから、仕方なく、娘さんのご主人の自宅に電話したんだって。でも、私もあんたも、夜中に固定電話なんか使ってないものね.....」と。
私は、すぐに身支度をした。
なぜ、夜中の3時に、病院からすぐに来てくれって電話が入ったのに、今頃6時になんて
電話してくるのか、夫に怒りを感じていた。
あの夫の事だ、その電話を切ったあと、寝たのだろう。事の重大さを知ってか、知らずか
本当に悔しかった。
そして、追い打ちをかけるかのように、母親が病院に電話をした。
「今、看護師さんに電話したら、安定してるから大丈夫だって」と。
そして、いそいそと、朝食の支度をした、食べ始めたのだった。
「ねー!父さんが、危篤なんだよ?朝食なんて、病院の食堂で食べれるでしょ?」と
私が言うと、母親は「お母さん、朝食食べないと動けないのよ。看護師さんが大丈夫だって言ってるんだから。そんなに早く行きたければ、あんた一人で行ってきなさいよ」と。
なんて、母親だと思った。


私だけ、タクシーに乗り、一足早く、父の病院への行った。
父親の病室に入るなり、とても驚いた。
昨日、帰る時には、スヤスヤと寝ていた父親が、ベットに横向きになり、大きな口を開け
苦しそうに息をしてる。まるで、絵画の「ムンクの叫び」のような形相だったのだ。
私は父に駆け寄り「とうさん!ブルムンだよ!分かる?」と言うと、父は目を薄らと開け
「うんうん」と首を縦に振った。「足が痛い」と言葉にならない言葉で言う父。
足をさすってあげたが、痛いと言って、足を触らせない。相当痛いのであろう。


そして、30分ぐらいしてから、母親が到着した。
看護師さんが、勤務交代の時間となり、状態の報告をしに来てくれた。
母親が私に「大丈夫だから、あんた家に帰っていいわよ」と言う。
それを聞いた看護師さんが「いいえ、今日がたぶん最後になると思うので、居て下さい」と。


9時になると、担当医と研修医の「回診」が始まる。
主治医の外科の先生が来た。
「おとうさん、調子はどうだい?」と主治医の先生が父親に声をかける。
父親はふっと目を開け「足が痛いんだ。」と言う、主治医が布団を取「どこが痛いの?」と足を触っていく、太ももに触れた瞬間、父親が「ぐっ、痛い」と悲鳴を上げた。
なんで、太ももがそんなに痛いのか分からなかった。
そして、また、すぐに、眠ってしまった。
すぐに、研修医が来て、注射器に液薬が入っている、点滴の連結部から、その液体を入れた。
私が「これはなんですか?」と聞くと、「アレルギーを超さないための薬です」とだけ言ったのだ。
主治医の先生が来た「最期になると、急にけいれんを起こしたりする場合があります。
それをご家族が見て、パニックになる場合がありますので、けいれんが起きても理解しておいてください」と。
そのけいれんを起こさないために液薬を入れたのだろうか?分からない。


そして、その液薬を入れてから、30分後、息苦しそうにしていた父親の呼吸が急に穏やかになった。
研修医が来て、こういった「おとうさん、今が一番気分良いはずですよ」と。
そして、徐々に、また、呼吸が穏やかになる。
そして、ナースステーションの、心電図のアラームが鳴りだしたのだ。
看護師が来て、こういった「今、おとうさんの心臓が止まりました。でも、また5分後に
心臓が動き出す場合もありますので、10分はこのまま様子を見ましょう」と。
だが、父親のそばに行くと、呼吸をしている。
看護師は「この呼吸は、心臓が止まっても、脳が呼吸をしなさいと指令を出してるのです。だから、本来の呼吸ではありません。そのうち、呼吸も止まります。」と。
母は「おとうさん」と声をかけていた。
私はじっと、父親の本当の最期を看取ろうと、呼吸が止まるまで見ていた。
吸って、吐いての、呼吸のリズムが、段々、間隔が伸びてくる。
最期に、ふーっと、呼吸を吐いて、そのまま、呼吸を吸うことは無かった。


2001年9月13日、11時07分、76歳で父は静かに永眠した。


医師が「死亡宣告」をした。研修医やナースステーションの看護師もみんな集まってくれて、父にお辞儀をしてくれた。


早いもので、死亡宣告をすると、看護助手が数名来て「ご家族は外でお待ちください」と言う。父の身支度をするのだ。父の着ていた寝間着も、シーツも枕カバーも、掛け布団カバーも、バスタオルも、全部、捨てるのだった。
「お支度できましたので、どうぞ」と言われ、病室に入る。
父は穏やかな顔をして、キレイに身支度をされ、白いシーツにくるまれていた。
両手をしっかりと握り、手首は包帯で両手を縛られていた。
父の手を触る、父のほほを触った。まだ、温かい。
「とうさん、よく頑張ったね。苦しかったね、痛かったね、でも、もう、大丈夫だよ。どこも痛くないし、苦しくないからね。
父さん、今まで本当にありがとうね。何も親孝行できなくて、ごめんね。
きっと、お兄ちゃんと、父さんのお姉さん、おじいちゃんにおばあちゃんも、迎えに来てくれたね。みんなと一緒に、天国に行ってね。こっちのことは、大丈夫だからね。
母さんの事も、私がなんとか、助け合って行くからね。」と心の中でつぶやいた。


すぐに、遺体安置所に移された。和室で寒々しい感じがなかった。
葬儀社に電話したり、親せきに電話したり、石川県の夫に連絡したりと、忙しい。
主治医と研修医、看護師さんが、遺体安置所まで来てくれて、お線香とあいさつをしてくれた。多忙でゆっくりとご挨拶ができなかったが、先生もよく看て下さったと感謝した。


そして、この先、また、親せき、夫、母親と、いろんな問題が出てくるとは思いもしなかた。


私は「とにかく、泣いてられない。父が思い残した事は、一番心配だったことは、きっと難病を抱えた母をひとりにしてしまうこと。今は父のために、葬儀をきちんと行う事だ」
と自分に言い聞かせた。