「父」の生い立ち
父親は、あまり自分の「生い立ち」を多く語らなかった。
生まれたのは「茨城県」すぐに、東京の「浅草」に住んでいた。
大正生まれの父親。10代には「太平洋戦争」の志願兵となる。
いわゆる「軍隊」ではあったが「衛生兵」と言い「薬剤師と看護師」を
合わせたような仕事をする部署に配置になった。
当時は海外に派遣された兵士のみ、終戦後、国からの「恩恵」を生涯受けた。
父の様に国内で配置された兵士には、国からの恩恵は何もなかった。
海外でも国内でも、戦争となれば、命の危険さは、どちらもあるのに。
父は、戦争での事も、あまり多くは語らなかった、ただ「あれは、おぞましい」
と、負傷兵を何十人と診てきて、死んでいった仲間をも看てきたからであろう。
戦争が終わり、父親の同期だった「衛生兵」は、ほとんどが「病院で薬剤師」など
するようになった。資格や免許がどうなのかは解らないが、それなりの知識は勉強
させられたそうだ。
だが、父親は薬剤師の道を選ばず「革職人」の道を選んだ。理由は解らない。
昔でいう「修行」として、「師匠に弟子入り」する。もちろん「住み込み」で。
その「師匠」の家には、小さいころ、私もよく遊びに行った記憶がある。
そこで、母親を知り合い、結婚をした。
父親には「腹違いの兄」がいた。
父親の母は、父を生んですぐに他界したそうだ。
そして「姉」もいたらしい。子供のころに他界した。理由は分からない。
そして、兄の母親も他界したのだろうか、父親と兄の二人きりの兄弟だけになった。
父親は、東京の浅草から、兄を頼りに「神奈川県の横浜」に居住することとなった。
私の記憶では、小学生の低学年のころ、一度だけ、父親の兄の入院する病院に連れられ
見舞いに行った記憶がある。確か、あまり会話が無かった記憶がある。
そして、父親の兄は他界した。
近所に「兄嫁」と子供たちが住んでいた。
だが、私は子供のころから、その「親戚」のところに遊びに行くことを両親は喜ばなかった。なぜだろう?とは、不思議ではあった。
その理由は、後に知ることとなる。
そして、父親の「師匠」である、親方さんの家にも、何度か遊びに行った記憶がある。
その親方さんの家にも、娘さんがひとりいた。
その親方さんの奥さんが、私のことをとても可愛がってくれた記憶がある。
そして、その親方さんが、病気で他界した。その葬儀にも私は出席した記憶がある。
だが、奥様の顔は覚えているが、親方さんの顔は記憶がとぼしい。
毎年年始になると、私は両親に連れられて、この親方さんの家に挨拶に行った記憶がある。一度だけ、この親方さんが、父親を叱責した事があった記憶がある。
その年始のあいさつで、一緒に親方さんのお宅で会食をしていた時、父親にとっては
私(当時幼稚園)が、何か父親に叱られる事をしたらしい(記憶にはない)それを見た
父親が私に怒鳴ったのだ。それを見た、親方が「おい!お正月ぐらいいいじゃないかっ!子供の好きにさせてやれっ!」と。父親は「はい」と親方さんに頭が上がらなかった。
親方の奥さんも、とても私を可愛がってくれた。
もう、他界されてしまったのだが、とても笑顔の素敵な女性で、お店の前を通る時
いつも、奥さんが「お店ばん」をしていて、私が挨拶をすると、手招きして呼ぶのだ。
お店に入り、少し話しをする、あの素敵な笑顔で、いつも私を応援してくれたのだ。
そして、いつも、帰る時になると、奥さんはレジからお金を出して、私にそっと渡すのだった。私は両親から「お小遣い」をあまりもらえなかったので、それがとてもありがたかった。いつも私の「味方」をしてくれた、親方ご夫妻。親方が他界した時、奥さんが他界
した時、とても悲しく、寂しかった。お転婆な私をいつも温かい目で見守ってくれた。
両親のしつけが厳しく、いつも、悔しい思いをしていた私にとっては、唯一無条件で私の味方と応援をしてくれた。今でも「ありがとう」と思う。
父親から直接聞いた話だが、住み込みで修行をし、何年か後に、父親が独立しお店を
持つことを、親方さんから許された。
だが、親方さんのお店から、かなり離れた場所にお店を持ったのだが、親方さんが
それに怒り、疎遠になったと、これは父親が他界した後、母親から聞いた。
そして、母親と結婚し、お店も持ち、息子も生まれた。
だが、その息子(私の兄)が、先天性の心臓病となり、3歳半で他界した。
父親は、私に、兄の事もあまり語ることは無かった。
母親の話だと、兄はそう長くはない命だと、宣告されたとき、父親は兄が大好きだった
「電車」を見に、兄をおんぶして、山をひとつ超え、毎日、近くの駅まで見せに行ったそうだ。母親は虚弱だったため、それができなかったのだ。
そして、兄が亡くなり、葬儀やら、納骨やら、を終えて、しばらくして、私が生まれた。
後に、私は父方の親せきから「あなたの今の両親は本当の両親ではないのよ」と告げられるのだった。
私の兄が3歳で他界したことで、のちに母親は父親への深い「恨み」を抱くのだった。
その理由を、私は父親が他界した後に、知るのだった。
父親は「人の悪口」をあまり言う人ではなかった。
父親の兄は、ギャンブル好きで、近所の人たちから「借金」をしていたそうだ。
嫁も子供も4人もいる。
昔は、戸建ての家には「内風呂」があり「木でできた風呂」だった。
父親の兄は「風呂桶屋」として、お店を構えていた。
その兄が、よく父親の住み込みの親方の家に訪ねて来たそうだ。
親方も、父親の兄なら、家に上げるであろう。
だが、父親が仕事から帰ってくると、兄が訪問してきたことを知る。
父親が自分の部屋に行くと、すべての荷物を荒らされ、給料を勝手に持って行ってしまったそうだ。
父親にとっては、たったひとりの身内だ、兄の素行の悪さに頭を抱えながらも耐えてきたそうだ。
そして、兄嫁さんが「家賃が持った得ないので、うちに来て住みなさい」と言ってくれたそうだ。
だが、その兄嫁さんには、魂胆があり、家賃も食費も光熱費も、父親から取って行ったそうだ。後に両親は、この「兄嫁」さんからのいじめに耐える事となる。
そして、結婚後、お店を持った際にも、父親は兄の作った借金をすべて代わりに返済したそうだ。父は「唯一、俺の兄貴だから」と言って、愚痴ひとつ言わず、父の兄の借金を返し、兄に折角働いた給料さえも、持ち出しされてしまっても、父はじっと耐えたのだ。
兄嫁さんからの、金の無心にも「義姉さんも、口は悪いし、金の亡者だけど、でも、面倒見はいいんだよ」と言い、ずっと、兄嫁さんには気を遣っていた父親だった。
きっと「師匠」からの、決別も心の傷となったであろう。
そして、商売も軌道に乗り、やっと家族で食べていけるようになったそうだ。
浅草で育った父は、とにかく「お祭り」が大好きだった。
町内会の夏のお祭りには、よくいろんな係りを買って出ていた。
子供会の会長にもなり、近所の子供たちの面倒も見てきた。
特に「かぎっ子」と言われる、ご両親が働きに出て、子供が家でひとりでいる子供や
事情があり親のいない子供には「子供のころに出来る思い出を沢山作ってあげたい」と
自腹で「梨狩り」「栗ひろい」「海水浴」「潮干狩り」など、いろんなところに連れて
行ってあげたのだった。
もちろん、お母さん方も、普段は家にこもりがち、そんな親子を一緒に連れて行ってあげるのが多かった。
そんな父を、近所の人や、親子さんが、とても感謝してくれたのだった。
特に、父は「水泳」が得意だったので、泳げない子供たちに、水泳を教えていた。
お母さん方からは、泳げなかった子が、家族で泳げる人が居ないので、泳げるようになって、本当にうれしかったと、言ってくれる親もいた。
私の同級生も「お前の親父さんには、本当にありがたい。頭が上がらないよ。」と言ってくれる、ヤンチャな子も沢山いた。
理由は「こんな俺らは、大人から偏見な目で見られ、いつも顔色をうかがう、でも、おまえの親父さんは、分け隔てなく、接してくれたんだ。ダメなものはダメと叱り、出来た事へは、自分のことのように喜んでくれたんだ。」と。
後に、私はこの人たちから、中学生の時に、守られたのだった。
きっと、父にとっては、3歳で他界した息子への思いもあったのだろう。
息子にやってあげたかったこと、それを、他の子供たちにしてあげたかったのであろう。
そして、時代も変わり、小売業がだんだんと売れなくなって来た。
大型ショッピングセンターや、大型スーパーが進出してきたので、小売業がどの種も閉めざるおえなくなってきたのだった。
当時、父は50歳を過ぎていた。
やもなく、父は外に働きに出るしかなくなってしまったのだった。
お店は、母に任せ、父は「銀行のビルの警備員」になった。
だが、勤務は夜勤など、不規則となる。給料も多い職種でもない。
しかし、父の年齢を考えると、身体を酷使しての職種しかなかったのだった。
今まで、師匠の店で働き、自分の店を持ち、外で働いた事のない父が、外で働く
働かなければならない状況だったのは、本当にしんどかっただろうと思う。
ゆえに、ストレスもあったであろう。
そのストレスのはけ口が、子供の私に向けられたのだった。
このことは、後で書こうと思う。
定年の65歳まで働き、これからは自分の趣味でも、と思ったが、やはり家族を養うまでは、年金だけでは大変だった。
父は近くの小学校と中学校の守衛さんとして、アルバイトをすることとなった。
いくらにもならないアルバイトだ。それでも、ずっと働いてきた父親は、急に自宅で
何もしない生活はイヤだったのだろう。
それを見てると、本当に昔の人は、メンタル的にも、忍耐的にも、肉体的にも「強い」と思った。
父は、幼い時に、母親を亡くし、姉を亡くし、連れ子のいる後妻さんに育てられた。
すぐに、父親までも亡くし、後妻さんも亡くした。
頼れる人は、唯一「腹違いの兄」だけだった。その兄も酒に入りびたり、ギャンブルに明け暮れ、近所に借金を作り、その支払いを、弟である父にさせた。それだけでは足らず
父の給料日には、住み込み先を訪れ、居ない事をいいことに、荷物をあさり、お金を持って行ってしまう。兄嫁さんからまでも、金の無心をされ、働けど、働けど、自分のためではなく、いつも兄と兄嫁のために、お金を取られてしまう。
結婚と共に、やっと自分のお店を持てるようになるが、自分の息子を3歳で他界されてしまう。常に妻である母の病弱な身体に気を遣っていた。お店を持つも、師匠から出したお店の場所が気に入らないと、師匠と弟子の縁を切られた。
そして、常に兄の作った借金への、近所への信頼を取り戻そうと、近所のためにいろんな役を買って出て信用を得るように頑張ってきた。お店もやっと軌道に乗るも、大型スーパーや、大型店の進出のため、商売が下火になり、やもなく、50過ぎて過酷な仕事をしなければならなくなった。
真面目が父は、仕事も定年まで何とか頑張った。やっとこれから、年金で夫婦でゆっくり
過ごそうと思った矢先、「進行性の胃がん」になり、体調不良を訴えてから2年足らずで他界した。
父の人生は一体、何だったのだろう?一体、こんな苦痛な人生を送るような、悪い事をしたというのか?
親、兄弟、を若い時に亡くし、恩恵もない国のために頑張り、弟子入りして頑張り、師匠のために耐え、兄のために耐え、息子を亡くし悲しみに耐え、母のために頑張り、これから楽をしても全然おかしくないのに、癌となり、辛く、しんどく、激痛に耐え、死んでしまった。
本当に、父の人生を思うと、悔しい。
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