Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「母」の難病と初めての介護ヘルパー

2001年9月に父が他界し、その後は、母はひとりで生活することとなった。
私は石川県に住んでるため、なかなか頻繁には会いには行かれなかった。
それでも、近所の方々が、母がひとりで住んでる事に、気を配ってくれた。
中でも当時の「自治会長ご夫妻」は、本当に気にかけてくれた。
丁度、自治会長さんが、父の戦友でもあったためであろう。
奥さんも「夫を亡くしてひとりだと、気が紛れないから」と言っては
食事のおかずを作って持ってきてくれたり、話し相手になってくれた。
自治会のお金の管理も、母に任せてくれた。
母は、そんな周りの方々の気持ちに感謝しながら、前向きに生活していた。


そんなある日、買い物から帰ってくると、よく胸のあたりを、トントンと叩くしぐさが多くなった、かかりつけ医に診てもらうと「循環器の専門病院に行って検査をしてもらって下さい」と言われた。
すぐに、父が通院していた専門病院には循環器もあり、その病院に検査をしに行った。
「心臓には太い冠静脈が3本ある、そのうち、2本の3か所に、血栓が見られる。
これは、太い血管から管を入れて、ステンレスの網を血管に装着して広げる手術をしないとならない。出来た血栓は、その場で削る。事前の検査で入院し、手術で入院し、一度には3か所はできないので、一か所ずつ手術をすることになります。」との事だった。


母がよく胸をトントンと叩いていたのは、軽い狭心症を起こしていたためだった。


母は「膠原病」と言う難病を患っていた。
この病気になったのは、1990年ごろにハッキリと病名が判明した。
この当時のかかりつけ医は、リウマチの専門の先生でもあった。
このかかりつけ医からは「この病気はまだ特効薬もない、現状を保つしかない。
あとは血圧を上がらないように薬を飲むしかない」と言われていた。
だが、のちのち、他の大学病院で医師は「いや、当時も膠原病の薬はありますよ。
なんで、膠原病の薬を処方されていなかったか、何十年も。」と言われたのだった。
それまでは、どの病院に行っても「肝臓が悪い」としか診断されなかった。


この病気の特徴は、リウマチの様に手足の指の関節が曲がってしまう。
心臓より遠い頭部、手足の指先に、酸素が行き届かず、血液の循環も悪くなる病気だ。
冬になると、手先の指は、まるで蝋人形のような色になってしまう。
足は常に冷たく、何枚もの靴下をはき、張れるホッカイロを常に腰と足に貼っていた。
足の親指は、外反母趾の様に曲がり、ひとさし指の上にあるため、歩行も思うようにはいかなくなった。


手先の指も曲がってしまうため、料理をするのに、包丁や片手鍋などは持ち辛い。
調理するのも困難になった母は、介護保険で介護ヘルパーをお願いすることとなった。
当時は「要支援」があったため、母は「要支援」の介護を受けれる事となった。
おもに「家事援助」などだった。
買い物は、母本人がスーパーに行って自分で見たいと言うので、掃除と調理をお願いした。当時の介護ヘルパーさんは、とても良い方に恵まれた。


後に、この介護保険での介護は、いろいろと問題があり難しいと思った。
このことは、のちに書こうと思う。


そんな平穏な日々を暮していた母だったが、ある出来事から生活が一変するのだった。


「父」の生い立ち

父親は、あまり自分の「生い立ち」を多く語らなかった。
生まれたのは「茨城県」すぐに、東京の「浅草」に住んでいた。
大正生まれの父親。10代には「太平洋戦争」の志願兵となる。
いわゆる「軍隊」ではあったが「衛生兵」と言い「薬剤師と看護師」を
合わせたような仕事をする部署に配置になった。
当時は海外に派遣された兵士のみ、終戦後、国からの「恩恵」を生涯受けた。

父の様に国内で配置された兵士には、国からの恩恵は何もなかった。
海外でも国内でも、戦争となれば、命の危険さは、どちらもあるのに。
父は、戦争での事も、あまり多くは語らなかった、ただ「あれは、おぞましい」
と、負傷兵を何十人と診てきて、死んでいった仲間をも看てきたからであろう。


戦争が終わり、父親の同期だった「衛生兵」は、ほとんどが「病院で薬剤師」など
するようになった。資格や免許がどうなのかは解らないが、それなりの知識は勉強
させられたそうだ。
だが、父親は薬剤師の道を選ばず「革職人」の道を選んだ。理由は解らない。
昔でいう「修行」として、「師匠に弟子入り」する。もちろん「住み込み」で。
その「師匠」の家には、小さいころ、私もよく遊びに行った記憶がある。
そこで、母親を知り合い、結婚をした。


父親には「腹違いの兄」がいた。
父親の母は、父を生んですぐに他界したそうだ。
そして「姉」もいたらしい。子供のころに他界した。理由は分からない。
そして、兄の母親も他界したのだろうか、父親と兄の二人きりの兄弟だけになった。
父親は、東京の浅草から、兄を頼りに「神奈川県の横浜」に居住することとなった。


私の記憶では、小学生の低学年のころ、一度だけ、父親の兄の入院する病院に連れられ
見舞いに行った記憶がある。確か、あまり会話が無かった記憶がある。
そして、父親の兄は他界した。


近所に「兄嫁」と子供たちが住んでいた。
だが、私は子供のころから、その「親戚」のところに遊びに行くことを両親は喜ばなかった。なぜだろう?とは、不思議ではあった。
その理由は、後に知ることとなる。


そして、父親の「師匠」である、親方さんの家にも、何度か遊びに行った記憶がある。
その親方さんの家にも、娘さんがひとりいた。
その親方さんの奥さんが、私のことをとても可愛がってくれた記憶がある。
そして、その親方さんが、病気で他界した。その葬儀にも私は出席した記憶がある。
だが、奥様の顔は覚えているが、親方さんの顔は記憶がとぼしい。
毎年年始になると、私は両親に連れられて、この親方さんの家に挨拶に行った記憶がある。一度だけ、この親方さんが、父親を叱責した事があった記憶がある。
その年始のあいさつで、一緒に親方さんのお宅で会食をしていた時、父親にとっては
私(当時幼稚園)が、何か父親に叱られる事をしたらしい(記憶にはない)それを見た
父親が私に怒鳴ったのだ。それを見た、親方が「おい!お正月ぐらいいいじゃないかっ!子供の好きにさせてやれっ!」と。父親は「はい」と親方さんに頭が上がらなかった。

親方の奥さんも、とても私を可愛がってくれた。
もう、他界されてしまったのだが、とても笑顔の素敵な女性で、お店の前を通る時
いつも、奥さんが「お店ばん」をしていて、私が挨拶をすると、手招きして呼ぶのだ。
お店に入り、少し話しをする、あの素敵な笑顔で、いつも私を応援してくれたのだ。
そして、いつも、帰る時になると、奥さんはレジからお金を出して、私にそっと渡すのだった。私は両親から「お小遣い」をあまりもらえなかったので、それがとてもありがたかった。いつも私の「味方」をしてくれた、親方ご夫妻。親方が他界した時、奥さんが他界
した時、とても悲しく、寂しかった。お転婆な私をいつも温かい目で見守ってくれた。
両親のしつけが厳しく、いつも、悔しい思いをしていた私にとっては、唯一無条件で私の味方と応援をしてくれた。今でも「ありがとう」と思う。


父親から直接聞いた話だが、住み込みで修行をし、何年か後に、父親が独立しお店を
持つことを、親方さんから許された。
だが、親方さんのお店から、かなり離れた場所にお店を持ったのだが、親方さんが
それに怒り、疎遠になったと、これは父親が他界した後、母親から聞いた。


そして、母親と結婚し、お店も持ち、息子も生まれた。
だが、その息子(私の兄)が、先天性の心臓病となり、3歳半で他界した。
父親は、私に、兄の事もあまり語ることは無かった。
母親の話だと、兄はそう長くはない命だと、宣告されたとき、父親は兄が大好きだった
「電車」を見に、兄をおんぶして、山をひとつ超え、毎日、近くの駅まで見せに行ったそうだ。母親は虚弱だったため、それができなかったのだ。


そして、兄が亡くなり、葬儀やら、納骨やら、を終えて、しばらくして、私が生まれた。
後に、私は父方の親せきから「あなたの今の両親は本当の両親ではないのよ」と告げられるのだった。

私の兄が3歳で他界したことで、のちに母親は父親への深い「恨み」を抱くのだった。
その理由を、私は父親が他界した後に、知るのだった。


父親は「人の悪口」をあまり言う人ではなかった。
父親の兄は、ギャンブル好きで、近所の人たちから「借金」をしていたそうだ。
嫁も子供も4人もいる。
昔は、戸建ての家には「内風呂」があり「木でできた風呂」だった。
父親の兄は「風呂桶屋」として、お店を構えていた。
その兄が、よく父親の住み込みの親方の家に訪ねて来たそうだ。
親方も、父親の兄なら、家に上げるであろう。
だが、父親が仕事から帰ってくると、兄が訪問してきたことを知る。
父親が自分の部屋に行くと、すべての荷物を荒らされ、給料を勝手に持って行ってしまったそうだ。
父親にとっては、たったひとりの身内だ、兄の素行の悪さに頭を抱えながらも耐えてきたそうだ。


そして、兄嫁さんが「家賃が持った得ないので、うちに来て住みなさい」と言ってくれたそうだ。
だが、その兄嫁さんには、魂胆があり、家賃も食費も光熱費も、父親から取って行ったそうだ。後に両親は、この「兄嫁」さんからのいじめに耐える事となる。


そして、結婚後、お店を持った際にも、父親は兄の作った借金をすべて代わりに返済したそうだ。父は「唯一、俺の兄貴だから」と言って、愚痴ひとつ言わず、父の兄の借金を返し、兄に折角働いた給料さえも、持ち出しされてしまっても、父はじっと耐えたのだ。
兄嫁さんからの、金の無心にも「義姉さんも、口は悪いし、金の亡者だけど、でも、面倒見はいいんだよ」と言い、ずっと、兄嫁さんには気を遣っていた父親だった。


きっと「師匠」からの、決別も心の傷となったであろう。


そして、商売も軌道に乗り、やっと家族で食べていけるようになったそうだ。


浅草で育った父は、とにかく「お祭り」が大好きだった。
町内会の夏のお祭りには、よくいろんな係りを買って出ていた。
子供会の会長にもなり、近所の子供たちの面倒も見てきた。
特に「かぎっ子」と言われる、ご両親が働きに出て、子供が家でひとりでいる子供や
事情があり親のいない子供には「子供のころに出来る思い出を沢山作ってあげたい」と
自腹で「梨狩り」「栗ひろい」「海水浴」「潮干狩り」など、いろんなところに連れて
行ってあげたのだった。
もちろん、お母さん方も、普段は家にこもりがち、そんな親子を一緒に連れて行ってあげるのが多かった。
そんな父を、近所の人や、親子さんが、とても感謝してくれたのだった。
特に、父は「水泳」が得意だったので、泳げない子供たちに、水泳を教えていた。
お母さん方からは、泳げなかった子が、家族で泳げる人が居ないので、泳げるようになって、本当にうれしかったと、言ってくれる親もいた。
私の同級生も「お前の親父さんには、本当にありがたい。頭が上がらないよ。」と言ってくれる、ヤンチャな子も沢山いた。
理由は「こんな俺らは、大人から偏見な目で見られ、いつも顔色をうかがう、でも、おまえの親父さんは、分け隔てなく、接してくれたんだ。ダメなものはダメと叱り、出来た事へは、自分のことのように喜んでくれたんだ。」と。
後に、私はこの人たちから、中学生の時に、守られたのだった。


きっと、父にとっては、3歳で他界した息子への思いもあったのだろう。
息子にやってあげたかったこと、それを、他の子供たちにしてあげたかったのであろう。


そして、時代も変わり、小売業がだんだんと売れなくなって来た。
大型ショッピングセンターや、大型スーパーが進出してきたので、小売業がどの種も閉めざるおえなくなってきたのだった。


当時、父は50歳を過ぎていた。
やもなく、父は外に働きに出るしかなくなってしまったのだった。
お店は、母に任せ、父は「銀行のビルの警備員」になった。
だが、勤務は夜勤など、不規則となる。給料も多い職種でもない。
しかし、父の年齢を考えると、身体を酷使しての職種しかなかったのだった。
今まで、師匠の店で働き、自分の店を持ち、外で働いた事のない父が、外で働く
働かなければならない状況だったのは、本当にしんどかっただろうと思う。


ゆえに、ストレスもあったであろう。
そのストレスのはけ口が、子供の私に向けられたのだった。
このことは、後で書こうと思う。


定年の65歳まで働き、これからは自分の趣味でも、と思ったが、やはり家族を養うまでは、年金だけでは大変だった。
父は近くの小学校と中学校の守衛さんとして、アルバイトをすることとなった。
いくらにもならないアルバイトだ。それでも、ずっと働いてきた父親は、急に自宅で
何もしない生活はイヤだったのだろう。
それを見てると、本当に昔の人は、メンタル的にも、忍耐的にも、肉体的にも「強い」と思った。


父は、幼い時に、母親を亡くし、姉を亡くし、連れ子のいる後妻さんに育てられた。
すぐに、父親までも亡くし、後妻さんも亡くした。
頼れる人は、唯一「腹違いの兄」だけだった。その兄も酒に入りびたり、ギャンブルに明け暮れ、近所に借金を作り、その支払いを、弟である父にさせた。それだけでは足らず
父の給料日には、住み込み先を訪れ、居ない事をいいことに、荷物をあさり、お金を持って行ってしまう。兄嫁さんからまでも、金の無心をされ、働けど、働けど、自分のためではなく、いつも兄と兄嫁のために、お金を取られてしまう。
結婚と共に、やっと自分のお店を持てるようになるが、自分の息子を3歳で他界されてしまう。常に妻である母の病弱な身体に気を遣っていた。お店を持つも、師匠から出したお店の場所が気に入らないと、師匠と弟子の縁を切られた。
そして、常に兄の作った借金への、近所への信頼を取り戻そうと、近所のためにいろんな役を買って出て信用を得るように頑張ってきた。お店もやっと軌道に乗るも、大型スーパーや、大型店の進出のため、商売が下火になり、やもなく、50過ぎて過酷な仕事をしなければならなくなった。
真面目が父は、仕事も定年まで何とか頑張った。やっとこれから、年金で夫婦でゆっくり
過ごそうと思った矢先、「進行性の胃がん」になり、体調不良を訴えてから2年足らずで他界した。


父の人生は一体、何だったのだろう?一体、こんな苦痛な人生を送るような、悪い事をしたというのか?
親、兄弟、を若い時に亡くし、恩恵もない国のために頑張り、弟子入りして頑張り、師匠のために耐え、兄のために耐え、息子を亡くし悲しみに耐え、母のために頑張り、これから楽をしても全然おかしくないのに、癌となり、辛く、しんどく、激痛に耐え、死んでしまった。
本当に、父の人生を思うと、悔しい。

「父」の最期

2001年6月、私は「入籍」を済ませた。
報告を兼ねて、実家に行き、後ろ髪を引かれる思いで、石川県と戻った。
毎日、実家に電話をすれば、また、父親に感ずかれる。
気持ちを抑えて、2日置き、3日置きに実家に電話をして、父親の状態を聞いた。


6月になり、夫の出張で香川県に行ってきた。私も同行した。
初めて行く場所。かと言ってひとりで観光する気も起きない。
「さぬきうどん」がお土産屋さんにあった。
すぐに、実家に送った。
もう、食欲もない父親に、うどんなら食べれるかもしれないと思った。
送った事を実家に電話をした。
母親が出てこう言った。
「もう、何も送ってこなくていいから。特に食べ物は、お父さんも、もう食べられないから、可愛そうだから。」と。


他にも、出張があると、同行した。
行く先から、実家に電話をして、父親と話しをした。
父親は「今度はどこだ?一緒に出張先についていけよ。」と。


そして、何度か実家に電話し、父親に変わってもらうことがあった。
「お前は、新婚旅行はいつ行くんだ?」と聞いてくる。
「8月15日ぐらいから、9月3日には日本に帰ってくるよ。」と。
「そうか」と父。
父親と電話で話しをすると、いつも、この事を聞いてきた。


そして、8月15日、新婚旅行でヨーロッパに行った。
また、この旅行でも、夫とは、いろいろあった。
まさか、この時、夫は愛人に連絡してるとは、夢にも思わなかった。
本来なら、楽しい新婚旅行なはずが、夫は愛人の事、元妻の事が気になり、私は父親の
事が気になり、全く楽しくない、心ここに非ずの状態の新婚旅行だった。


海外旅行をすると、国内線の航空券もタダになるらしく、日数が決められているが
実家に帰り、泊まる事ができた。
9月1日に実家に帰り、3日には、石川県に帰らないとならない。
私だけ、実家に帰り、夫は1日に実家により、仕事があるからと、翌日には石川県に帰った。


父親へのお土産、おしゃれだった父親に「英国のシャツ」を買ってきた。
「とうさん、早く元気になって、このシャツを着てね。」と渡した。
父は、喜んで、パジャマの上から羽織った。「似合うか?」と嬉しそうに。


ふと、足を見ると、まるで像の足のように、むくみがひどかった。
「足が痛くてたまらないんだよ」と。
腹水が足に出る事もあるらしく、父は足に出てしまったのだ。
素足なのに、まるで、靴下を何枚も重ねて履いてるかのように、痛々しかった。
「おまえは、いつ、石川に帰るんだ?」と父
「3日には石川に帰るよ。」と私
「そうか、3日はお父さんは、通院の日だ。。。見送れないけどすまんな」と父。
「いいよ、そんなこと気にしなくて、とうさんは治療に専念して」と私。
「なんだか、食べられないんだよ.....困ったな」と父。
とても、辛そうだった。


そして、9月3日、私が石川に帰る支度をしてる時、丁度、父は通院のためにタクシーが来るのを座って待っていた。
母親が「おとうさん、何してるの?もう、タクシー来てるのよ。早くして」と。
父は、腰を上げるのを、なんだか、ためらっていた。
そして、やっと、重い腰を上げ、玄関を出る時に、私に言ったのだ。
「ブルムン、じゃあな!」と。
その声は、今まで、か細い声とは違い、力強い声だったのだ。
その声を聞き、なぜか、私はハッとしたのだ。
すぐに、父親の後を追い、玄関に出た。
すでに父親は廊下を歩き、下に向かう時だった。
父親が歩く姿を見るのが、これが最後だとは思わなかったのだ。


今思えば、この一言には、父親が私に言いたかった事すべてが込められていたのだと。


そして、空港に着き、搭乗まで時間があったので、実家に電話をした。
母親が出た「今日はね、先生が異常ないですよ、と言われて、お父さん喜んでね
帰りに、お蕎麦屋さんで、お蕎麦食べたのよ。美味しい美味しいって完食よ。」と。
それを聞いて、私はとてもうれしかった。
食べれれば、まだ、とうさんは大丈夫だ!と。


そして、9月10日、関東地方に台風が上陸すると天気予報でやっていた。
心配になり、実家に電話をした。
母親が出た。
「おとうさんね、7日から、入院してるのよ。もう、ダメみたい。今日からモルヒネを打つって先生が言っていたわ。」と。
「なんで!連絡してくれないのよっ!こんな台風が上陸するのに、行けないじゃない!」
と私は、母親に怒ったのだった。
モルヒネを打ってしまったら、もう、意識もまばらになってしまうからだ。
意識がちゃんとしてる時に、父と話しがしたかったのだ。
「したわよ、でも、電話に出なかったから.....」と母。
「その時、出なくても、夜中でもなんでもいいから、電話してよっ!」と私。
「いいわよ、来なくても。」と母。
すでに、私はこんな調子の母親に対して、怒りがあった。


そして、9月11日関東に台風が上陸、飛行機も飛ばない、高速道路も封鎖。
父の元に行ける手段がないのだ。
9月12日、空港に朝電話をする。飛行機は飛ぶと言う。すぐにチケットを取って空港に
行った。とは言うものの、羽田空港から来た飛行機が、今度は小松空港から羽田に折り返すため、朝と言っても、10時は過ぎてしまうのだ。
なんとか、羽田空港に到着した。
そこから、実家に荷物を置くために、実家まで2時間はかかる。
お昼を過ぎてしまった。そして、父親の病院へ。
すでに、夕方近くなってしまった。


父親はナースステーション目の前の個室に居た。
心電図を付け、モニターはナースステーションで見れるようになっている。
父親はベットで、スヤスヤと寝ていた。モルヒネが効いているのであろう。
父親に「とうさん、来たよ」と声をかけると、薄らと目をあけ、うなずいた。
すぐに目を閉じ、また、寝る。
父親の寝顔を見ながら、ずっと、子供のころの事を思い出していた。
「とうさん、ありがとうね。いろいろとうさんとは喧嘩したけど、とうさんはよく
家族のために頑張って、働いてくれたよね。自分は食べなくても、母と私にはいつも
ひもじい思いだけはさせまいと、頑張ってくれて、本当にありがとうね。
何もやってあげれなくて、親孝行できなくて、本当にごめんね。」と心の中で何度も言った。


しばらくすると、病院の夕食の時間が来た。
たぶん食べる事ができないであろう、父に「とうさん、夕食が来たよ、食べる?」と
言うと、父は目を覚まし「うん、食べる」と言った。
私はベットを少し起こし、父におかゆを少しずつ食べさせてあげた。
父は私の顔を、じーっと見ながら、おかゆを少しずつ食べた。
「もう、要らない」と言う父。「おかずは?」と聞くと「要らない」と首を横にふる。
「じゃあ、ヨーグルトあるけど、食べる?」と聞くと「食べる」と言う。
病室の冷蔵庫から、ヨーグルトを出し、スプーンで少しずつ父親の口に入れてあげた。
父親は「美味しい、美味しい」と言いながら、のどをごくごくと鳴らしながら食べた。
そして「もう、要らない。水をくれ」と言う父親。寝たまま飲める急須のような物に
冷たい水を入れて、飲ませてあげる。ゴクゴクと父はお水を飲んだ。
そして、父が私に「なんだ、おまえ、来てたのか?」と言うのだった。
私は「やだ、さっきから、ずっと居るよ」と言うと「そうか」と言って父はまたベットに
横になって寝たのだった。
モルヒネで、もう、記憶もバラバラになってしまっているのであろう。


病棟の消灯時間も近づいてきた。
父親はスヤスヤと寝ている。
起こしてしまうのは可愛そうだと思い「とうさん、帰るからね、また、明日来るね」と
言って、ナースステーションに帰る事を言った。


今まで、父親が入院した時、私が帰る時間になると、決まって、出入り口まで見送って
くれた父親。「暗くなるから、気を付けて帰るんだぞ」と言いながら。
だが、今回は、それが無い。病室を出て、病院の出口まで行く長い廊下がある。
その廊下の突き当りを、左に曲がると病院の出入り口になる。
なぜか、その日だけは、その長い廊下の突き当りになる手前で、ふと、後ろを振り向いた。父親が病室の出入り口を、ふと見たのだった。当然、見送りなどできる状態ではない。でも、自分でも分からないが、なぜか、この日だけは、ふと、後ろを振り向いたのだ。


そして、翌日、私は何だかイヤな予感もあり、寝つけなかった。
朝6時ごろ、固定電話が鳴った。母親が出た。
相手は、石川県に居る夫からだった。
母親が「今、あんたの旦那からで、お父さんの入院先の看護師から電話があり、血圧がもう測れない様態なので、すぐに病院に来てほしいって、夜中の3時ごろ電話があったらしいの。看護師が何度も、自宅に電話してもつながらないから、仕方なく、娘さんのご主人の自宅に電話したんだって。でも、私もあんたも、夜中に固定電話なんか使ってないものね.....」と。
私は、すぐに身支度をした。
なぜ、夜中の3時に、病院からすぐに来てくれって電話が入ったのに、今頃6時になんて
電話してくるのか、夫に怒りを感じていた。
あの夫の事だ、その電話を切ったあと、寝たのだろう。事の重大さを知ってか、知らずか
本当に悔しかった。
そして、追い打ちをかけるかのように、母親が病院に電話をした。
「今、看護師さんに電話したら、安定してるから大丈夫だって」と。
そして、いそいそと、朝食の支度をした、食べ始めたのだった。
「ねー!父さんが、危篤なんだよ?朝食なんて、病院の食堂で食べれるでしょ?」と
私が言うと、母親は「お母さん、朝食食べないと動けないのよ。看護師さんが大丈夫だって言ってるんだから。そんなに早く行きたければ、あんた一人で行ってきなさいよ」と。
なんて、母親だと思った。


私だけ、タクシーに乗り、一足早く、父の病院への行った。
父親の病室に入るなり、とても驚いた。
昨日、帰る時には、スヤスヤと寝ていた父親が、ベットに横向きになり、大きな口を開け
苦しそうに息をしてる。まるで、絵画の「ムンクの叫び」のような形相だったのだ。
私は父に駆け寄り「とうさん!ブルムンだよ!分かる?」と言うと、父は目を薄らと開け
「うんうん」と首を縦に振った。「足が痛い」と言葉にならない言葉で言う父。
足をさすってあげたが、痛いと言って、足を触らせない。相当痛いのであろう。


そして、30分ぐらいしてから、母親が到着した。
看護師さんが、勤務交代の時間となり、状態の報告をしに来てくれた。
母親が私に「大丈夫だから、あんた家に帰っていいわよ」と言う。
それを聞いた看護師さんが「いいえ、今日がたぶん最後になると思うので、居て下さい」と。


9時になると、担当医と研修医の「回診」が始まる。
主治医の外科の先生が来た。
「おとうさん、調子はどうだい?」と主治医の先生が父親に声をかける。
父親はふっと目を開け「足が痛いんだ。」と言う、主治医が布団を取「どこが痛いの?」と足を触っていく、太ももに触れた瞬間、父親が「ぐっ、痛い」と悲鳴を上げた。
なんで、太ももがそんなに痛いのか分からなかった。
そして、また、すぐに、眠ってしまった。
すぐに、研修医が来て、注射器に液薬が入っている、点滴の連結部から、その液体を入れた。
私が「これはなんですか?」と聞くと、「アレルギーを超さないための薬です」とだけ言ったのだ。
主治医の先生が来た「最期になると、急にけいれんを起こしたりする場合があります。
それをご家族が見て、パニックになる場合がありますので、けいれんが起きても理解しておいてください」と。
そのけいれんを起こさないために液薬を入れたのだろうか?分からない。


そして、その液薬を入れてから、30分後、息苦しそうにしていた父親の呼吸が急に穏やかになった。
研修医が来て、こういった「おとうさん、今が一番気分良いはずですよ」と。
そして、徐々に、また、呼吸が穏やかになる。
そして、ナースステーションの、心電図のアラームが鳴りだしたのだ。
看護師が来て、こういった「今、おとうさんの心臓が止まりました。でも、また5分後に
心臓が動き出す場合もありますので、10分はこのまま様子を見ましょう」と。
だが、父親のそばに行くと、呼吸をしている。
看護師は「この呼吸は、心臓が止まっても、脳が呼吸をしなさいと指令を出してるのです。だから、本来の呼吸ではありません。そのうち、呼吸も止まります。」と。
母は「おとうさん」と声をかけていた。
私はじっと、父親の本当の最期を看取ろうと、呼吸が止まるまで見ていた。
吸って、吐いての、呼吸のリズムが、段々、間隔が伸びてくる。
最期に、ふーっと、呼吸を吐いて、そのまま、呼吸を吸うことは無かった。


2001年9月13日、11時07分、76歳で父は静かに永眠した。


医師が「死亡宣告」をした。研修医やナースステーションの看護師もみんな集まってくれて、父にお辞儀をしてくれた。


早いもので、死亡宣告をすると、看護助手が数名来て「ご家族は外でお待ちください」と言う。父の身支度をするのだ。父の着ていた寝間着も、シーツも枕カバーも、掛け布団カバーも、バスタオルも、全部、捨てるのだった。
「お支度できましたので、どうぞ」と言われ、病室に入る。
父は穏やかな顔をして、キレイに身支度をされ、白いシーツにくるまれていた。
両手をしっかりと握り、手首は包帯で両手を縛られていた。
父の手を触る、父のほほを触った。まだ、温かい。
「とうさん、よく頑張ったね。苦しかったね、痛かったね、でも、もう、大丈夫だよ。どこも痛くないし、苦しくないからね。
父さん、今まで本当にありがとうね。何も親孝行できなくて、ごめんね。
きっと、お兄ちゃんと、父さんのお姉さん、おじいちゃんにおばあちゃんも、迎えに来てくれたね。みんなと一緒に、天国に行ってね。こっちのことは、大丈夫だからね。
母さんの事も、私がなんとか、助け合って行くからね。」と心の中でつぶやいた。


すぐに、遺体安置所に移された。和室で寒々しい感じがなかった。
葬儀社に電話したり、親せきに電話したり、石川県の夫に連絡したりと、忙しい。
主治医と研修医、看護師さんが、遺体安置所まで来てくれて、お線香とあいさつをしてくれた。多忙でゆっくりとご挨拶ができなかったが、先生もよく看て下さったと感謝した。


そして、この先、また、親せき、夫、母親と、いろんな問題が出てくるとは思いもしなかた。


私は「とにかく、泣いてられない。父が思い残した事は、一番心配だったことは、きっと難病を抱えた母をひとりにしてしまうこと。今は父のために、葬儀をきちんと行う事だ」
と自分に言い聞かせた。