Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「母」命日

2016年7月「新盆」が終わり、9月には「一周忌」があった。
夫と私のふたりで送ってあげた。
父方の親戚も、母方の親戚も、これ以上問題になり、面倒くさい事になるのがイヤだったため、出欠席も取らずに、夫と私とだけで行ったのだ。


月日が経つのは、本当に早いと感じた。
母が他界して、もう、一年が経ったのかと。
まだまだ、私の中では、母が病院に行けば会える、特養に行けば会える
実家に行けば会えると言う感覚がある。

最期の入院前の夏、病院から退院した時、特養の送迎マイクロバスの中で
病院から特養に帰るバスの中での会話が今でも悔やまれる。

私「母さん、無事に退院できてよかったね。もっと良くなったら何したい?」
母「そうね、美味しいマグロが食べたい」
私「あっ!いいね!マグロ!三崎のマグロ食べに行こうよ!」
母「うん、食べたいね、一度も三崎のマグロ食べた事ないから」
私「うんうん!行こう!そのためには、早く体力つけなきゃね」
母は嬉しそうに笑った。
母が、外の景色を見たのは、これが最後だった。
その三崎のマグロを食べに行く前に、母は他界してしまったのだ。
あの時の母の嬉しそうな笑顔が、今でも忘れられない。
ずっと「母さま、ごめんね。三崎のマグロ、食べに連れて行ってあげれなくて」
と仏前に今でもお茶とお線香をお供えする度に、言っている。
それからは、私がスーパーで「お刺身」を買い食べる時や、外食でお刺身を食べる
時には、少しだが、必ず「かげ善」をする。


いつも「こんなことなら、もっと早く、母に食べさせてあげれば良かった」と
自責の念に駆られるのだ。


父親が最期の時は、母と私を待つかのように、看取られながら逝った。
父親はしっかりした性格で、頼りがいがあるが、ある意味「寂しがり屋」だった。
父親は家族に看取られながら逝きたいと言う執念な最期だった気がする。
母親の最期は、病院から「危篤」の連絡があって行ったが、大丈夫となり
自宅に近い病院だったので、一時帰宅してる時に、逝った。
「弱みを人には見られたくない」と常に気丈な母らしい最期だった気がする。

父親が他界してからは、私はよく夢に父親が出てきた。
まだ、若い頃の父親が、私を見るなり、満面の笑みを浮かべ、私が話しかけようと
父親に近づくと、ふと、横には、やせ細り、頭髪もまばらになり、うなだれてる
父親の姿があり、私は驚きながら、ふと前を見ると、満面の笑みを浮かべた父親の姿は
なく、ふと、横を見ると、やせ細った父親の姿もない。そんな夢を見た。
それも、数年間だったが、それ以来、父親が夢に出てくる事が無くなった。
父親の姿が無くとも、夢の中では、父親の声だけ聞こえる夢はあった。
母親が他界してから、よく夢に出てくる。
両足を失くし、車椅子の生活だった母親が、しっかりと歩いてる夢だ。
両足のあった頃の母親しか夢に出てこない。
夢の中の私は「あれ?母の両足がある」と不思議に思ってる。
毎回、そこで目が覚めるのだ。

だが、夢に出てくる母とは、いつも、私は「言い争い」をしているのだ。
母へのいろんな意味で、子供の頃からの扱いや、嘘、など、私は消化してると
思っていたが、ココロのどこかに、まだ消化していないものがあるのかもしれない。
夢の中で、私は母との言い争いに「これは言ってはいけない」と思いつつ、夢の中で
母にひどい言葉を浴びせているのだった。ふと、そこで目が覚める。
目覚めた時、母はこの世にいない現実を知る、とても、母に対して心地悪い感情が
あるのだ。母に「ごめんね」と心の中で言う。


そして、父と兄と母の眠るお寺で「一周忌法要」をしてもらった。
私より二つ年上の「住職」に会うのが、とてもイヤだ。
私の顔を見れば「墓閉めを」「お金」この言葉しか言わない住職。
何かを質問しても「小馬鹿にした態度」だ。
とりあえず「お布施」「御膳料」「お茶代」「お車代」「お掃除代」「管理料」などを渡した。
今は2017年の「三回忌」までは、我慢しようと思った。
この住職「7回忌までに、墓閉めの返事をしてくれ」と言う。
「私がまだお墓参りが出来る身体であるうちは、墓閉めはしない。私がもう、足腰が
弱くなり、墓参りもできない状態になる事があれば、その時に墓閉めを考えます」と
言っておこうかと思う。墓を閉めるのも、かなりの「お金」もかかるからだ。


そして、母の一周忌も無事に終えた。
だが、またも、父方の親せきやら、母方の親戚との、問題があった。
それも、のちのち書いて記録しておこうと思う。