Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「夫」9.11以降2月のアメリカでの面接(責任逃避)

2001年に結婚(入籍のみ)をして、私の父親の永眠、流産、夫に愛人とセフレが
居たことが判明してから、ギクシャクした日々が続いた。
それは当然であろう。
毎日のように、夫からの「モラルハラスメント」と「離婚」を強要する言葉の嵐。


そんな中、2002年に入った頃、夫から「俺はアメリカに行って仕事がしたい。アメリカの企業に履歴書を送ったら、面接の依頼が来た。2月にアメリカに面接に行く。向こうの企業が、ぜひ奥様も一緒にアメリカに来て下さいと言ってる。」と言ってきたのだった。
「奥様も一緒にぜひ」と渡航費用まで出してくれるとは、流石アメリカだと思った。
当時は、私も今よりは、まだ余力もあった。
それに、知らない土地、石川県で、真冬の2月、雪深い土地で一人で過ごすなど無理だった。
夫に愛人やセフレが居た事で、また、アメリカで会うのではないか?と思う点もあった。


結婚前に、夫がヨーロッパに一人旅をした時の事を、よく私に自慢していた。
「女性の一人旅の人に声をかけるんだ、向こうも言葉も分からず、地理も分からず
寂しいので、そこで、俺が声を掛け、一緒に同行すると、結果、セックスまで行く事が
できるんだ。」と。
どこが自慢なのか?10代の頃に「遊びを知らない」人は、30歳になっても、こういう遊び方しか出来ない事を自慢する、呆れた記憶がある。
そういう事もあり、今回のアメリカへは私も同行することにしたのだった。


丁度、2001年の9月11日には、アメリカで「同時多発テロ」があった。
翌年の2002年の2月にアメリカまで面接に行ったのだった。
とにかく「セキュリティチェック」がすごく厳しかった。
アメリカのニュージャージー州と言う場所での面接だった。
隣は、ニューヨーク州で、まさに、同時多発テロのあった場所だ。
空港名は忘れたが、成田空港から降り立った時のチェックは厳しく、時間もかかった。
空港には銃を構えた大きな体格の警察官が、何人も居た。
日本で生まれ育った私には、その銃の恐ろしさを知らない。
だが、あの光景は、圧巻だった。


私にとっては、生まれて初めてのアメリカ。
2月はとっても寒い日だった。雪も降った。
到着した日は、ニューヨークのホテルに泊まった。
とにかく、日本の東京のような、ビルばかりの中のホテルで、意外と狭かった。
そして、翌日、ニューヨークから、電車に乗り、隣のニュージャージー州へ。


ところが、このニュージャージー州は、ニューヨークと全く違い、閑静な住宅地。
その中に「プリンストン大学」があった。
中に入ってみたが、それは、それは、広大な敷地だった。
とっても素敵で、広くて、大学内の購買には、なんと、有名な化粧品のカウンターまであった。とにかく、驚くばかりの土地だった。
まるで、ヨーロッパの田舎に来たような感じだった。
泊まったホテルも、昔からあるような、木造のホテルだった。


そして、面接には夫ひとりで行く。
ホテルで、英語も話せない私は、ひとりで居る事が不安だった。
とても、外には出られない。
「ちょっと散歩でも」などと外に出たら、迷子になりそうだった。
迷子になっても英語が話せないため、人に聞く事もできない。


だが、私にとっては「救世主」とも言える友人がいた。
以前、夫とも同時に仲良くなった、障碍者で車椅子に乗ってる共通な友人が居た。
もちろん、日本人で英語も堪能だ。アメリカで仕事をし生活をしている男性だ。


私には「喘息」と言う持病があり、寒いと発作が起こるのだ。
夫に「万が一、喘息の発作を起こしたら、どうやってフロントを呼べばいいの?
英語が話せないから、英文で書いておいて。」と夫に言ったのだった。
だが、夫は「そんなの俺は君の通訳じゃないから、自分でなんとかしろ」としか
言ってくれなかったのだ。
喘息の発作が起こると「歩けない」「しゃべれない」「呼吸が吐けない」ととても
苦しいのだ。


その事を、その障碍者の友人にメールで送った所、その友人は優しくこう言ってくれた。
「まず、絶対に誰かが来ても、ドアを開けたらダメだからね。あと、テレビは見なくても、つけておきなさい。中に人が居ると分かるようにね。
そして、簡単な英文を書いてメールで送るから、何かあったら、そのメールをフロントや、ホテルに居るアメリカ人に見せなさい。
ご主人が面接に行ってる間、俺が電話しててあげるよ。喘息の発作がもし起こったら
そのまま、電話をフロントの外人に渡してくれ。俺が話すから。君もひとりで不安だろうから、ご主人が帰って来るまで、電話で話しをしてよう。」と。
そして、その通りにしてくれたのだった。
良かった事に、喘息の発作も起きずに安心した。
その友人も、夫のこの言動に、ただただ首を傾げ「ありえないよな」と言っていた。
その友人に、本当に感謝した。


そして、面接が終わり、夫がホテルに帰ってきた。
「面接したグループの人たちが、俺たちを夕飯に招いてくれたから、行こう」と言う。


そして、車で迎えに来てくれた人と一緒にレストランに行ったのだった。
その席で、英語は分からないのは私だけ。
夫は、そのグループの人たちと会話をすることだけで、私への通訳もなし。
だが、気を利かせてくれたのか、そのグループの女性が「奥さんはどんな料理を作るの?」と聞いてきた。
すると、夫は英語で「妻は、料理は作らないよ」と言ったのだった。
これには、本当に驚いた。
真実、私は、新婚で、かいがいしくも、毎日夫のために食事を作り、帰りを待ち、一緒に食べていたのだ。
いくら、私が英語は分からなくても、そのぐらいの英語ならわかる。


そういえば、夫が私に初めて、英語を教えた言葉が「嫌い Hate」だった。
「私はあなたが嫌い I hate you」と言う言葉だった。
夫にとってみたら、わざと、そういう言葉を教えたのであろう。
電車の中で「ほら、言ってごらん?I hate youって声を出して」と私に何度も何度も
言ってきたことがあった。もちろん、夫は私にもその英語を何度も私に向かって言っていた。


夫はアメリカに行った時も、ヨーロッパに新婚旅行や婚前旅行に行った時も
「俺は君の通訳じゃない。そのくらいの英語、自分で調べろ」と言う。
だが、よく「俺はイギリスでも、アメリカでも仕事をしてきたから、英語は話せる」
と、よく自慢していた。


夫がよく口癖の様に、私に言っていた言葉がある。
「よくレディーファーストって言うけど、俺がアメリカに居た頃、アメリカ人は俺によく言ってたよ ” そんなレディーファーストなんかしてたら、チャンスを逃すぞ ”って、
だから、俺はレディーファーストなんかしないんだ」と。
だが、これも、アメリカでの生活を知らない私だから言えた事。
同じく、アメリカ人と結婚した友人は言っていた「まず、家族を大事にしない人は、会社でも人望がないよ。アメリカ人は、まず妻や子供を大事にしない人は相手にしないから。
ご主人の言ってる事は、真逆だよ。」と。


そして、帰り、空港での「セキュリティーチェック」の時、夫がノートPCを持って
いたことで、警察の人が「ノートPCを起動させて、中を見せろ」と言ってきたのだった。そこで、数十分の足止めを食らった。
夫は、まさかと思ったのだろう、それはパニック状態。
余計に怪しく見えるのだ。


無事に日本に帰り、面接の結果を待つ日々。
夫が私に「もし、アメリカでの面接がOKだったら、俺はアメリカに行って仕事をしたいけど、君はどうする?」と聞いてきたのだった。
私は「英語が話せない、持病もある、知らない土地、しかも海外、それでも私を連れていくわけ?あなたは、何のフォローもしないのに?私は無理。行くなら、あなただけ行けば?でも、また、前の奥さんを同じ環境にするわけ?」と言った。


私には夫が、なぜ、アメリカに行きたいのか、理由は分かっていた。
妻を孤独な環境にして、どうにでもなれ、と思っているか。
アメリカ行きを、私が断る事で、離婚を引き出すつもりだったのであろう。
それと、自分が愛人やセフレを作り、私にバレた事で、海外に逃げたかったのであろう。
たぶん、一番の理由は、最後の「逃げ」だったのであろう。


もちろん、ニューヨークに行った時も、夫は私に「買い物」もさせてはくれなかった。
DCブランド物を買うわけでもない、せいぜい、化粧品ぐらいなのだが。
いつも、夫は買い物をしたいと、私が見ていると、言う言葉がある。
「ここで買わなくても、帰りにターミナルの中の免税店の方が品数あるし安いよ。」と。
夫からすると、私にそう言い、その場から私を離す。
そして、帰りの空港に行くと「もう、搭乗しないとならない時間だから」となるのだ。
結局、十分に見る時間もなく、買えずに飛行機に搭乗しないといけなくなるのだ。
こういう「小賢しい」夫のやり方には、本当に頭に来る。


これは海外に限った事ではない。日本に居ても、デパートや、スーパーであっても
同じ事を言い「ネットの方が安いよ」とか「来週末、他のデパート行ってみよう」と
言いながら、その時になると「忘れてネットで買っていない」デパートに行くと言う
と「体調が悪い」と出だすのだ。
結局は「買わない」。「買えない」のではなく「買わない」「買わせない」なのだ。
たとえ行っても、「本当にこれが今必要なの?」と難癖をつけては「買わせない」のだ。


先日も「100均」に行って、キッチン用品を買おうと思った。
一応、会計前に夫に「買い物カゴに入れたけど、最終確認で消去法で選んで、会計に行く」と言った。すると、夫は「あ、これは要らない」「これも要らない」と始まったのだ。100円だろが、500円だろうが、1000円だろうが、夫には関係ない。
「とにかく、妻の買いたい物は、キッチン用品であれ、買わせたくない」のだ。


なにせ、以前、100均でも、トイレの便座カバーを洗い替えと共に3枚買おうと手に取ったら、夫はサッと、その品物を私の手から取り上げ「1枚買うと言ったのに、3枚買う理由を述べよ」と言ったぐらいの人だ。
述べよって.......述べよって.....何だよ(笑)


結局、アメリカでの仕事は、夫は自分で断ったそうだ。
だが、またも「俺はアメリカで仕事をしたかったのに、君が一緒には来ないと言うから
仕方なく、断ったんだ!」と言うのだった。
そして、最後のお決まりは「離婚してくれ」だ。
いやいや....私はきちんとあなたに言ったはず。
一緒に行ってアメリカで生活して、夫は日本国内でも妻へのフォローが無いのに、アメリカで、英語も話せない妻を、どーやってフォローするの???
その場所に、日本語の話せるアメリカ人か、同じく日本人妻が居て、毎日の生活をフォローしてくれるサポートしてくれる人がいるならまだしも。
異国での言葉も話せない人が、生活するのは、そう簡単じゃないですから!!


だいたい、日本の石川県での生活の時だって、職場の人達との交流もなし、夫の友人との
交流もなし、石川県の住民との交流もしてこないまま、私はどんだけ石川県での生活が
しんどかったか。
それに、まだ、子供を産むことに協力してくれていたら「ママ友」だってできたはず。
それさえも、夫は全く非協力的だった。
「せめて、金沢市に越して欲しい」と言っても、夫は拒否。
金沢市なら、まだ、バスも本数もあるし、地形的に平坦なので、自転車でもスーパーにも
行けたのに。しかも、金沢市なら、私も仕事を見つける事もできたのだ。
こんなサポートも無しな夫に、どーやって、アメリカで私が生活できると言うのか???
しかも、自分で断っておきながら、私のせいにするなど、呆れるばかりだ。


まぁ、なにせ、新婚早々、妻の父親が他界して大変な時に、愛人やセフレを作る様な夫。
それも、妻のせいにするぐらいだから。


これからの日々、私は「うつ病」「パニック障害」と、メンタルな病との闘いが来るとは
思いもしなかった。