Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「父」の闘病

2001年4月ごろ、呼吸器の専門病院から、外科のある病院に紹介状を頂くのと、最後の診察をしに行った。
だが、貧血がひどく、父親は入院し「輸血」をすることとなった。
ところが、その呼吸器の病院で、病棟看護師は信じられないミスを犯した。
輸血をする際「同意書」が必要になる。
そこには、病名を記載しないといけない。
そして、そこには「胃がんのため」と書かれていたそうだ。
その同意書を、そのまま父親に持って行き、署名をさせたそうだ。


すぐに母親に父親から病院の公衆電話から電話があり「俺はやはり癌だったんだな。。。。」と、落ち込んだ様子だったと言う。
告知をしたい母親が、そこで父親に何を言ったかは分からない。
今は告知をする医者も多い。
そのミスは、単なるミスなのか、告知を推薦する呼吸器の先生の意図なのか、分からない。
でも、家族が「告知は本人にしないで欲しい」と言う意思を無視して、本人に知らせるのは、やはり違う!本人に悟られないようにしてるのだから、周りもその努力をするべき!
私も喘息を持ち、この呼吸器の専門病院に通院してるが、絶対にこんなことをする病院には、たとえ肺がんになっても、入院しない!と思った。


そして、4月に、外科のある病院に、紹介状と共に父親は診察に行った。
GWの前あたりに、父親の抗がん剤の治療が始まった。
入院はせず、とりあえず、自宅で抗がん剤の薬を飲む事となった。
その病院で、担当医の外科の医師と、内科の医師が所見で、言い争いになったそうだ。
内科の医師は「これだけ、肺活量があれば、胃がんを取る手術に耐えられる」と
だが、外科の担当医は「高齢で、間質性肺炎まであるのに、手術に耐えられるわけがない!」と電話で口論となったそうだ。
「外科の担当医が、この患者は私が責任を持って診る!今後は一切口出ししないでくれ!」と内科の医師に言ったそうだ。
その様子を、父親が見ていて「頼もしい先生だ。この先生なら命を預けられるな」と
感激していた。
この外科医と内科医の意見の違い、余命3か月~半年との告知を受けたのに、どういう
意味で、外科の医師が、こう言い切ったかの真意は解らない。


そして、GW中に、抗がん剤の副作用で父親は「生死をさまよう」事となった。
父親の様子に変化が見られた。「ろれつが回らない」「まるで酔っ払いの様な足取り」
だった。ある日、昼間に5分置きに、トイレに駆け込む父親の足音が聞こえた。
「あー吐き気があるのだろうか?」と思う程度であった。
だが、吐いてる様子はない。
突然、バタンと大きな音が聞こえた「トイレの戸を強く閉めたのかな?」と思った。
すると、母親が「お父さん!どーしたのっ!」と叫ぶ声が聞こえた。
すぐに、私も自室から出た。居間で、母親の膝の上に頭を乗せ、うなっている父。
母親は「うんうん、つらいね。苦しいよね。」と父親の頭を撫でていた。
私は「どうしたの!救急車を呼んで、病院に行かないと」と言った。
母親は「いいのよ、もう、お父さん、ダメなんだから、そっとしときましょ」と。
父親ままるで「子供」になったかのような状態だった。
「トイレに行くの~!」「ウンチしたいの~!」と。明らかに様子がおかしい。
すぐに、呼吸器の先生に電話した。「紹介した外科の先生には、私から電話して
状態を言っておくから、すぐに救急車を呼んで病院に向かう様に。」との事だった。


とにかく、私は、父親がおもらしをしてるので、大人用のおむつを買いに行った。
そして、すぐに、救急車を呼んだ。
救急隊の人に、事情を話した。救急隊の人が優しく父親に言葉をかけてくれた。
「お父さん!どうした?大丈夫!すぐに病院に連れて行くからね」と声を掛けてくれた。
父は、申訳けなさそうな顔と声で「えへへ、倒れちゃったんだよ。。。」と言った。
救急隊の人が「お父さん!気にするな!そーゆー人のために俺たちが居るんだから」と言って下さった。父は救急隊の人たちに丁寧にストレッチャーに乗せられ救急車に運ばれた。父は救急隊の人たちに「すまないな~」「悪いなぁ~」と、ずっと言いながら運ばれて行った。私は母親に「とにかく、お母さんは、お父さんと救急車に乗って、病院に先に行って。私は後から、お父さんの入院の支度してタクシーで行くから」と言った。
だが、救急車は一向に動く気配がない。病院へは連絡は取れて、受け入れ体制はできてるはず。救急車に私は近ずき様子を伺った。
母が「あんたが、一緒に乗ると思って。。。」という。
私は母親に「何をしてるの!早く病院に行って!」と声を荒げた。
この母親の行動も後に理由が解った。
そして、救急病院に到着し、ICU(集中治療室)に入院した。
担当医の先生から「抗がん剤の副作用かもしれません。発熱があり、この熱が明日まで下がらない場合は、覚悟をして下さいでも、もう少し運ばれるのが遅かったら、確実に
手遅れな状態でした。」との事だった。
万が一に備えて、母親が父親のベットの隣に泊りがけとなった。
私は自宅に戻った。母親と交代するために。


自宅に戻り、私は大声で泣いた。すぐに仏壇の兄に向って話しかけた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃんは3歳で天国に行った!親より遥かに早く!これは親不孝なんだよ!お父さんはどれだけ残り少ないお兄ちゃんの命のために頑張って頑張って、お兄ちゃんに思い出を残そうとしてきたか、一番解ってるよね?
今度は、お兄ちゃんが、お父さんのために、奇跡を起こしてあげる番だよ!
私の入籍もお父さんに知らせる前に、連れて行かないで!」と。


願いが通じたのか、翌日、父の入院先の病院に行くと、担当医から説明があった。
「奇跡的に、熱が下がりました。もう、心配いりません。今後は抗がん剤を変えてみましょう。」と。ホッと胸を撫で降りた。
「お兄ちゃん、ありがとう」と何度も心の中で感謝した。


しばらく入院し、父は元通りの状態に戻って行った。


5月下旬、父親は退院した。
同時に、私は入籍のために「引っ越しの荷造り」をしていた。(石川県に行くため)
退院した父が、私の荷造りを見て「ごめんな、お父さんがこんな体でなければ、お前の荷造りなど、手伝ってあげれたのにな。。。。」と。
私は「こんな荷造り、私ひとりで大丈夫だよ!お父さんは、しっかり病気を治して!」と言った。
父は「お前の夫になる人は、なんで、お前の荷造りに来ないんだ??おかしいだろ!」
と彼に怒りを口にした。初めて彼に対しての父の怒りだった。
私は「うん、彼も忙しいからね」と言うと、父は「そんなの理由にならん!お父さんから
すれば、彼が引っ越す時、お前は仕事の帰りでも、土日でも行って手伝っていたよな!
なのに、自分の都合の良い時だけ、お前を呼び出し、嫁になる人の手伝に来れないなんて言うのは、おかしい!」と。確かに父親の言う事は正しいのだっだ。
「彼のご両親に、お父さんから電話をして、お前の事をよろしくお願いしてやるぞ。
お前が幸せになれるのなら、お父さんはいくらでも、頭を下げてやるからな」と。
たとえ、父親がそう行動しても、彼の両親には通用しない事は解っていた。
だが、怒りやストレスは父親の身体に一番良くない。なんとか、理由を見つけて父親の彼に対する怒りを抑えるようにした。


5月30日、両親との最後の日、父親が私に言った。「今日はお前の嫁入りの日、結婚式も挙げてもらえず、誰にも祝福されないのは可哀そうだ。せめて、お父さんとお母さんだけでも、お前の嫁入りの日を祝ってあげたい。お前の大好物な料理を、お母さんに作ってもらうようにお願いしたからな。本来なら外で会食してあげたいのだが、お父さんがこんな体だから外で会食もできなくてごめんな。」と。


3人で夕飯を一緒に食べた。だが、父親はもう食欲もない。でも、なんとか娘のお祝いの
ために、少し食べてくれたのだった。
最後に父親が「明日、お前が石川県に行く、本来なら嫁入り道具が買えるぐらいお前に
持たせてやりたかったが、お父さんがこんな体で、これから入院費がどれだけ掛かるか
解らない。だから、少ししかお前に持たせてあげれないが、ごめんな。」と言いながら
ご祝儀袋を私に渡してくれたのだった。


翌日の5月31日、私が石川県に行くのに、最寄り駅に行くため、自宅を出発する。
父親がじっと私の支度を見て「お前の新しい旅立ちに空港まで見送ってやれなくてごめんな。。。」と言った。母親が「お母さんが見送ってあげるから」と言った。
私は「いいよ。大丈夫だから、お父さんにまた何かあったら大変だから、お母さんは
お父さんの傍に居て」と言った。


5月31日、天気の良い温かい日に、私は実家を後に、彼の待つ石川県へと旅立った。
実家を出て、駅まで行く道のり、生まれ育った町ではないけど、両親との思い出も沢山ある町、この道を毎日通って、仕事に行った道、両親との思い出も沢山思い出した。
父親の余命を知り、闘病だけでも辛いのに、娘の花嫁衣裳も見せてあげれない事へのむなしさ、彼が結婚式や披露宴もしないと言う事への不信、その事で父親に心配をかけたことへの申し訳けなさ、いろいろな思いがあった。嬉しいはずの涙が、悲しい涙となった。


羽田空港に到着し、搭乗までの時間、実家に電話を入れた。
母親が出た、父親に代わってもらった「ぢゃ、行ってくるね。入籍したら今度は二人で
実家に行くからね」と言った。父親は「うん、気を付けてな。行っておいで」と言ってくれた。もしかしたら、これが父親と最後の会話になるかもしれない、と思いがあった。


石川県の新しい家に到着し、実家にも無事に到着した事を伝えた。
母親が電話に出た。
「お父さんはベットで寝てるから、可哀そうだから、寝かせてあげて」と言われた。
翌日6月1日、無事に入籍を済ませた。
そして、報告を兼ねて、二人で私の実家に行った。


父親はベットで寝ていた。
夫となった彼が「コーヒーが大好き」だと言っておいたことで、父親はベットから起き上がって彼に「今、美味しいコーヒーを入れてやるからな」と言ってくれた。
もう、父は大好きなコーヒーさえも、飲めなくなっていたのだった。
夕方、5人で夕飯を実家で食べ、彼と私は近くのホテルに泊まった。
明日には、また、石川県に帰らないとならなかった。


父親の思い、夫となった彼への心遣い。
そんな思いを、彼は無駄にした。
まさか、この後、娘の事を裏切り、暴言を吐き、娘を苦しめる事になると、父親は知る由もなかったであろう。


「父」の病気

1999年秋から冬ぐらいからか、ある日、父親の「咳」がひどく、気になっていた。
父親は喫煙者だったため、自分でも「お父さんはきっと肺ガンになる可能性は高いだろう」とよく言っていた。
あまりに、咳がひどいためか、医者嫌いだった父親が「お父さん、病院に行ってくるよ」と2000年の5月ごろ、自ら言ってきた。
高齢ではあったが、父親は今まで大きな大病もせず、血圧だけを測りに「かかりつけ医」に月に一度程度、通院してたぐらいだった。


通院から帰宅すると、父親が言った。
「先生のところで、胸のレントゲンを撮ったら、すぐに紹介状を書くから大きな病院に行きなさいと言われたんだよ。等々、くるべきときが来たかな?」と。


数日して、すぐに「呼吸器系」の大きな専門病院に行った。
すると、そこでも細かく、検査をしたらしい。
担当医から説明があったそうだ。
病名は「間質性肺炎」
原因は不明な難病である。
かの有名な「美空ひばり」さんもこの病気だった。
画期的な治療法は無い。
強いて言うなら「ステロイド剤を飲む」ぐらいだそうだ。
そのステロイド剤も、入院してその人にあった容量を観察するそうだ。
父親も、すぐに「入院」して、ステロイド剤を飲む治療となった。

入院に付き添って一緒に行った。
入院しても、几帳面な父親は、入院中の食事や薬を手帳に細かく書いていた。
見舞いに行くと、まだ元気だった父親は、病室でいろんな話しをした。
父親は私が帰る時間になると、決まって、点滴をつるす棒を押しながら、病室の出入り口
まで、私を見送ってくれた。「寒いから帰りに靴下でも買って温かくしろよ。」と言い
少ない年金の中から、私にいつも3千円を渡してくれるのだった。
「寒いし、暗くなるから、気を付けて帰るんだぞ。」といつも言ってくれたのだった。


ほどなくして、父親が退院することとなった。
退院してから、父親が「なんだか、全身が痛いんだよ」と言い、かかりつけ医に行った。
すると「帯状疱疹かもしれないから、すぐに、皮膚科に行きなさい」と言われたのだった。2000年の年末近くだった。父親は痛みに耐え、タオルを温めては顔に当てていた。
皮膚科に行くと「帯状疱疹だから、すぐに、入院しなさい。大学病院に連絡しておきます」と言われたそうだ。
当時、私は仕事をしていたため、父親に付き添う事が出来なかった。


2001年の1月、寒い日に、父親は入院した。
「帯状疱疹」の場合、いわゆる「隔離病棟」になる。
原因はステロイドの服用によるものらしい。
寒い日に、母親と二人で父親の見舞いに行った。
大学病院の最上階にある、3つほどの個室の病室に、家族と団らんできる待合室がある。
その隔離病棟の中だけは、どこに行き来しても良いらしい。
父親は元気だった。その待合室の窓は大きく、海がよく見えた。
父親が「待合室から見る海は、とってもキレイなんだよ」と、私と母親を案内してくれた。あまり無理させられないため、病室に戻るが、病室からの窓も大きく、ヘリポート
がよく見えた。
「あ、雪が降ってきたよ。」と私が言うと、父親は「雪が降ると帰るのが大変だから、早くお前たち帰りなさい。気を付けて帰るんだぞ。お父さんは大丈夫だから。」と言いながら、また、隔離病棟の出入り口まで、私と母親を見送ってくれた。


そして、痛みも治まってきたので、退院となった。
だが、2月ごろ、すぐに、また、呼吸器の病院に入院することとなる。
「間質性肺炎」の状態を見るレントゲン検査を撮ったのだが、そこに、肝臓に「影」が
あると、主治医の先生が母親だけに言ったそうだ。
「肝臓がん」主治医の先生は「肝臓がんが先発ではないであろう、きっとどこかの内臓に
先発の癌があり、肝臓へ転移したのではないかと思う。精密検査をする。まずは胃カメラで検査をするのだが、ここは呼吸器の専門病院のため、胃腸科の先生は週に1度来る。
その時に、胃カメラの検査をします。」との事だったそうだ。


そして、胃カメラの検査をし、結果待ちとなった。
3月に、父親は退院した。
父親が私に言った。「担当の先生が、おまえに話したいことがあるらしいから電話してみてくれ。」と。イヤな予感がした。
私は、仕事の帰り道、駅の公衆電話から、担当医に電話をした。
「先日、お父さんの胃カメラの検査をしました。結果なのですが、やはり、胃がんでした。たぶん、これが先発で、肝臓に転移したのでしょう。お父さんに告知しますか?」
と言われた。
私は「そうですか、今後の治療はどのようになりますか?手術とか?」と聞くと
「手術は間質性肺炎もあるので、難しいでしょう。体力的にも。今後は癌は外科領域なので、外科の病院を紹介しますから、そちらに転院してください。
お父さんの胃がんは、厚みがすでに2センチあります。胃がんの場合は厚みで進行状況を判断します。肝臓への転移の癌の直径はすでに3センチあります。」と主治医。
私は「手術が無理な場合、どうなるのでしょう。余命何年とかになるのでしょうか?」
と聞くと、主治医は「いえ、余命は数か月単位と考えてください。早くて3か月遅くても
半年でしょう。」と主治医。
私はショックだった。全身から血の気が引くのが分かった。
私は「余命宣告は、父親にはしないでください。しっかりしてるように見える父親ですが
意外と、動揺してしまうので。」と言ったまでは覚えている。


父親の主治医との電話を切り、そのあと、どうやって自宅まで辿りついたのか記憶がない。とにかく、頭の中は「どうしよう」「私が6月に入籍する前に父親が死んでしまう」
「どうやって父親に説明しよう」「なんで、働き詰で、やっとこれから老後を謳歌しようとする父親に、こんな仕打ちが?」「もっと、私が早く気が付いてあげていれば」などなど、頭の中はグルグルと回っていた。
気が付くと、自宅玄関前に居た。
いつもなら、玄関のインターフォンを鳴らし、母親がカギを開けてくれる。
家の中に入り、手洗いうがいをすまし、着替えて、家族で夕飯を食べる。
だが、この日ばかりは、自宅玄関前に居ても、インターフォンのボタンを押せなかった。


父親の顔をまともに見れない。逆にいつもと同じようにしないと、感の良い父親のことだ
何か担当医に言われたと思われてしまう。担当医からの話しは何かと聞かれたら何と言おう。ここまで担当医に父親も言われて、そらぞらしく「胃潰瘍」だなんて言うのも変だ。
私の頭の中をいろいろな事が駆け巡った。


そして、インターフォンのボタンを押した。
父親はこたつに座り「ブルムン!お帰り!寒かっただろ?早く手洗いして、こたつに入れ」と笑みで迎えてくれた。私も笑顔で「ただいま」と言うのが精一杯だった。


着替えて、夕飯を食べる時、父親が「担当医に電話してくれたか?」と言ってきた。
私は「あ。。。とうとう来たか。。。。」と思いながら、「うん、電話したよ」と。
父親は「先生、なんだって?」と聞いてきた。
「うん、この間の胃カメラの検査の結果が出たらしいんだけど、どうやら、とうさん
初期だけど、胃がんらしいんだよ。それで、これから、その胃がんを、手術して取るか
抗ガン治療をするか、家族で話し合って欲しいって言うことらしいんだよ」と言った。
自分でも驚くかのように、それらしい内容が、勝手に口から出てきたのだ。
父親は「そうか。そういう事だから、娘のお前に話しがあると先生は言ったんだな」と
父親は納得した様子だった。


父親は「手術で治るなら、手術して一度で取ってしまった方がいいな。」と言う。
私は「うん、でも、とうさんの場合、間質性肺炎があって、手術ができる体力があるか分からないから、今は初期だし、抗がん治療をしながら、手術に耐えられる体力を温存して
置いた方が良いかもしれないって、先生は言っていたよ。なにせ、肺の細胞検査だと簡単に思っていたら、肺の皮膚と背中の皮膚が癒着してて、10時間の大手術したからね。」
父親は「そーだよな。まだ、手術の傷跡は残ってるしな」
私は「あの時も、分かって良かったんだよ。助かったよね。」
父親は「うん、本当に先生には足向けて寝れないな。まぁ、そのことは、先生とよく話しあって、方針を決めていくよ。」
私は「うん、その方がいいよ。今回も癌でも初期で良かったね」
それで、話しは終わり。私は、ホッとした。


問題は、母親だった。
母親は父親が居ない時、私に言ってきた。
「お母さんは、告知しないことに反対よ。お母さんはとても嘘つけないし、黙ってられない。」と。
私は「もし、とうさんが知れば、前向きに治療に専念しようと思わないよ!それでもいいわけ?」
母親は「おとうさんは、強いから大丈夫よ。」
私は「とうさんは、強そうに見えても、かなり動揺するよ。現に私が喘息で救急車で運ばれた時、救急隊の人が、住所と電話番号を言って下さいって聞かれたら、全く違う職場の住所と電話番号言ったんだよ??私の方が、ゼイゼイしながら、ここの住所と電話番号を言ったんだからね!」と言った。
母親は「とにかく、お母さんは告知しないことには反対よ!」と。
後々、母親は、信じられない言動を父親の前でしたのだった。

母が父がいる目の前で、私にこう言ったのだった。
「あんた、喪服ないから、喪服作っておきなさい」と。
父親が胃がんの初期だと告げたばかりなのに、そんな父親の目の前で母親が言ったこの
言葉に、とても怒りを感じた。
父親はとても感の良い人だ。母親のその言葉で、実は自分の死は近づいてると思ったら
今まで、決死で父親に告知をせず、頑張ってきたことが台無しだ。
母親はまるで、父親に間接的に「娘の喪服を作るということは、あなたの死は実は近いのよ。」と言わんばかり。
これは、母親の無神経さなのか、告知しない私への当てつけなのか、分からない。
後に、父親が他界してから、母親の父親への恨みが深かった事が分かったのだった。


そして、これから、父親の過酷な闘病生活に入るのだった。

祝ブログ

ブログを始めた。
日常のいろんな問題や、今まで10年以上の親の介護での問題、持病の事、愚痴を吐き出したり、日記の様に使って行こう。毎日は無理でも、自分の気持ちや出来事などを、書いて行こうと思う。