Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「母」被害者の裁判②介護事故

2011年、平成23年12月に、母は残った左足を介護スタッフに車椅子を挟まれた。
2012年、平成24年1月に、その事故が原因で、母の足が壊疽し切断をした。


母の手術が終わり、病室に戻った時、我慢強い母が泣きながら、激痛に耐えていた。
「痛い、痛い、もう、こんなことなら死んでしまいたい。」と言ったのだった。
そして、モルヒネよりひとつ下の「痛み止め」の点滴をしても、それでも、母は激痛が
収まらず、泣いていた。


こんな光景を見たら、母に怪我を負わせた介護スタッフや、事務所を許せと言う方が無理
その後、母に怪我をさせた介護スタッフ事務所から「会って話がしたい」と連絡が
あるも、内容は、謝罪ひとつ、見舞いひとつ、無かった。
あろうことか、夫に「見舞金5万円」を渡そうとしたが、夫は受け取らず帰ってきた。
「お金なんか要らないから、あんたらが、足切断する手術を受けてみろ!」と言いたい。


とりあえず、今は、母の切断した足の状態が良くなることだけを願った。
両足を失くした母は、絶望感でいっぱいだった。
今まで、何度も手術に耐えてきた母、いつも、前向きにしていた母だったが、流石に今回
の件は、食欲もなし、しゃべる事もしたくない、何も考えられない状態だった。
なんとか、私や病院の看護師さんたちに、勇気付けられて、リハビリまで行った。


そして、4月ごろ、母が無事に退院したと同時に、私と夫は「弁護士に相談」しに行ったのだった。
弁護士は「医療事故は、交通事故と同じ扱いになります。慰謝料と損害賠償を請求しましょう。こればかりは、ふたを開けてみないと、どう転がるかは分かりません。でも
お母さんにはひとつも悪い事が無いのですから、やるだけやりましょう。」と言って
くれた。


もちろん、母は低所得の年金生活者だ。裁判費用など無い。そんな人のために
「法テラス」と言うのがあり、格安で弁護費用をお願いできるシステムなのだ。
だが、慰謝料や損害賠償金が、相手から支払われた時、弁護士さんへの「成功報酬」
は支払う事になる。


まずは、弁護士さんに詳細を話し、母にも直接会って話しを聞いてくれた。
そして、「証拠集め」が始まるのだった。
この証拠集め、本当に大変だった。
理由は「相手が介護スタッフ」であったため、「介護日誌」デイサービスの「介護日誌」
訪問看護の「処置介護日誌」最初にかかった病院の「カルテ開示」かかりつけの「カルテ開示」ケアマネの「担当者会議議事録」など集めるのだが、みんな「開示」したがらない。
それを、開示させるためには、最終的には、弁護士さんが裁判所まで出向き、裁判官と
共に、当事者の病院や事務所に、予告なしで行き、その場で「開示させる」のだ。
理由は、事前に開示を見に行くと言えば「証拠を事務所や病院側に改ざん」される恐れ
があるからだそうだ。
しかも、その裁判官と共に「開示」をさせに行く時、裁判官の指示で「インクの検証」
まで出来て、いつ書いたものか、改ざんした跡があるかもわかるそうだ。
すごいと思った。


この開示について、一番嫌がったのが「最初にかかった病院」「右足を切断した病院」
「デイサービス」「ケアマネ」だった。
流石、「左足を切断した大学病院」はきちんと手続きを踏めば、すぐに開示してくれた。


そして「開示」の後は「担当した医師、からの、聞き取り調査」だった。
これには、医師は嫌がったのだった。
逆に言えば、これによって、裁判も最悪の方向に行ってしまったのだ。
どんなに当初「介護事故」と、詳細を医師に話していても、そのことを医師はカルテには
記載していないのだ。最悪の事態を想定して、あえて書かなかったのかもしれない。


ここで「介護事故」であっても、必ず「警察を呼ぶこと」が一番だ。
それを母も私も思いつかなかった。
警察を呼び「事故」として処理することで「状況証拠」となるのだ。


2013年平成25年春「1度目の裁判所での面談」。
裁判官と弁護士さんとの面談だった。
担当した裁判官にもよるらしいのだが、今回は、最初から裁判官は難色をしめしたそうだ。


2013年平成25年冬「2度目の裁判所での面談」。
裁判官と弁護士さんとの面談だった。
「加害者側は、何も過失はない。一円たりとも被害者に支払わない」と言ったそうだ。
担当した裁判官は「とにかく、直接的証拠を示した方が良い」との事だったそうだ。


2014年平成26年春「3回目の裁判所での面談」。
裁判官と弁護士さんとの面談だった。 
確か、この頃から、裁判官が変わったそうだ。
前任者だった裁判官と同じく「直接的な証拠と、被害者本人に裁判所まで来てもらい、証言を聞きたい」と言うものだった。
「娘さんには、証言してもらう必要はありません」との事だったそうだ。
加害者側は「こちらには非が無い」の一点張りだったそうだ。


2014年平成26年冬「4回目の面談」。
裁判官らによって「左足を切断手術した大学病院への担当医師への聞き取り調査」だった。
この大学病院の整形外科の医師が、こういった事をすごく嫌い、非協力的であったのだ。
母と私からすれば「左足が残ってる時点から、ずっと通院して、左足の状態も見て
大丈夫ですよ、などと言っていた。そして、左足を事故で切断する事態になったのも
この医師の年度、最初の通院日だったのだ。その時系列と、当日の事故の状況を
ちきんと話したのに、それをカルテにも記載しておらず、自分の患者さんなのに
裁判にも非協力的。それどころか、母の「持病があり、切断するのも時間の問題」
などと、裁判官に言ったそうだ。
これには、母も私も夫も、弁護士さんも「呆れた」の一言だった。


そして、母が直接裁判所に出向き、裁判官からの聞き取り調査を行う日程も決まって
いた。母も「出廷して、きちんと事実を裁判官に説明したい」と意気込んでいた。


ところが、その直前に、母が「誤嚥性肺炎」「狭心症」によって高熱を出し、特養の
医師から「外出禁止」が出てしまったのだった。


裁判は「5回目で判決が出る」と決まっていたため、母が出廷できないと、裁判は
そのまま進んでしまうのだ。これは、被害者の母には不利になってしまうのだ。


弁護士さんには「加害者側と裁判官とのやり取り」の議事録が見れる。
それを弁護士さんは、コピーして被害者である、母と私に送付してくるのだ。
その「議事録」を見ても、加害者側の言い分には、本当に怒りを覚えた。


事故が起きてから「会ってお話した事がある」と言われ、夫と私と別々に加害者の
介護事務所の担当責任者と、事務所責任者が来て会ったとき「謝罪は一切無かった」
母にも、私にも、夫にもだ。
だが、加害者側は「被害者本人、娘さん、娘さんのご主人に別々に会い、謝罪し
それを受け入れて許してくれた。」などと証言してるのだった。
これには、姑息な手段を使う、介護事務所には本当に怒り、恨みしかなかった。


ここで、加害者であろうが「事故」となった時、すべてにおいて「録音」「詳細を日記」
にすることが大事だと分かった。
「裁判はすべてが証拠」なのだ。


2015年平成27年春「5回目の面談」。
裁判官と弁護士さんとの面談だった。
裁判官は「直接的証拠が乏しい」「持病があるゆえ、事故が直接か医師の聞き取りでも
断定的な言葉が無かった」「被害者本人の出廷で証言を得られなかった」との理由
から、「被害者への有利性に欠ける」と難色を示したそうだ。


2015年平成27年夏「判決の日」。
裁判官からは「直接的証拠がない事」「担当医師の聞き取りで決定的な言葉を得られなかった事」「各施設のカルテ開示には、足の状態が記載されていない事」「被害者本人が出廷して証言できなかった事」「だが、事実左足を車椅子で挟まれ、その後切断したのは事実である事」「被害者本人や、その家族が、その事故以降、多大な苦痛を伴った事は事実である事」を挙げた。
裁判官は「判決を言うには、被害者側も、加害者側も、証拠としては乏しい。
判決には至らない。
ただし、被害者は足を切断した事実であるため、加害者側には、少額での損害賠償を
支払う事を言い渡す。その額は、被害者と加害者と話し合って決めて下さい。」との
判決だった。

判決は出なかったものの、慰謝料、損害賠償を、少額であっても、加害者側に「支払え」と裁判官が言ったと言うことは「事実上は被害者の母の勝利」となったのだった。


そして、被害者側からは「弁護士さん」「夫」加害者側からは「弁護士さん」「介護事務所責任者」が集まって「交渉」が始まったのだった。


「少額」と言うからには、100万~300万の間での交渉となるそうだ。
被害者である母の弁護士さんは「中を取って、200万で」と言うと、加害者側は
「100万しか払わない!これ以上は絶対に払わない!」とごねたそうだ。
それによって「上控訴」も、被害者の母や私は出来るのだそうだ。
だが、ここで「夫」が、口出しし「上控訴しても無駄」だと、私と母を説得し始めたのだった。「金は出さぬが、口は出す」、夫の十八番だ。
私と母は「たとえ上控訴して、そこで負けたとしても、きちんと、事実を話したい」と
思っていたのだ。


だが、一番のネックは「母の体調が悪い事」だった。
このままでは、上控訴しても、出廷して証言は、無理だと、医師は言っていた。
「お母さんは、明日、どうなるか分からない状態なのだから」と医師は言う。
確かに、判決の出る直前に、母はまた「誤嚥性肺炎」「心不全」で入院したのだ。


「上控訴」どころではない。母は誤嚥性肺炎で、食事もできず、栄養も取れないため
やせ細り、手の指が、壊死した状態になってしまったのだった。
医師の話しでは「人間、手足が壊死しても生きていけるんですよ。だたし、壊疽したり
敗血症にならなければです。」との事だった。


2015年平成27年秋、母はどんどん意識が遠くなっていく。
母に「母さん、裁判勝ったよ!」と報告した。
母は「うん」とうなづいた。
その判決を待ってるかのように、判決を聞いた後、母は帰らぬ人となったのだった。


2004年に「心臓冠動脈硬化症」でステントを入れる手術をした。
2005年に及ぶ、3か所の手術となった。
2007年に上階の人から水漏れをされ、被害を受けた母が、加害者に訴えられ裁判となった。2008年1年間に及ぶ裁判となった。
裁判が終わったと同時に、母が過労・心労から「肺炎」となり命の危機にさらされた。
2008年に「腹部が痛い」と言い、人生初の手術となった。
2009年に「両足大腿骨骨折」と分かり、人口関節となった。何度か外れ再手術となった。
2010年に「人口肛門」となった。直腸がんでもないのに。
同年、同病院で、医師の過信により「右足下肢切断」することとなった。
そこに至るまで、何度も手術を繰り返した。下肢切断はそれが原因となった。
2011年に「介護スタッフ」によって、残った左足を車椅子に挟まれた。
2012年にそれが原因で「残った左足下肢切断」手術となった。
室内でも「車椅子での生活」を余儀なくされた。
2012年後半にケアマネより「在宅介護では介護保険、障碍者援助でも、車椅子での生活の援助をする事は、もう無理。特養への施設入所を薦めます」と言われ、特養に入所する事となる。
2014年、2015年と、何度も何度も入退院を繰り返す事となる。
2015年に母は永眠した。


思えば、2001年に父を亡くしてから、2002年・2003年まで何事もなく生活していた。
2004年から、母の命のカウントが始まったのだった。
それでも2006年だけは、なんとか無事に過ごせた。
2007年から2015年に亡くなるまで、毎年のように、何かしらが起こり、母は苦しい思い
悔しい思いをしてきた。
それを思うと、母が晩年、一番しんどい思いをしてきたのだ。