Blue Moonのブログ

日々の出来事や思う事、などを綴って行くブログです。
また、長年の母の介護での、実際に起こった問題なども、綴って行きます。

「母」両足を無くした車椅子の生活

母は右足を、医師の過診で「下肢切断」をした。
そして、左足を介護スタッフの過失で「下肢切断」した。


今までは、左足だけでも残っているだけで、車椅子からベットへの移乗もできた。
車椅子から車への移乗もできた。
トイレも車椅子から便座への移乗もできた。
だが、両足を無くした事で、すべてが「不可能」になったのだった。


そのため、寝るのも、車椅子からベットへの移乗も、介護の手を借りないとできない。
車への移乗も、誰かに抱えられないと乗れない。
トイレも便座への移乗もできず、紙おむつの生活となってしまったのだった。


それは、母にとって、とてつもない苦難で困難な毎日の生活になった。
家族の私も、今まで以上に、母に手がかかるようになった。


それは、私自身の「持病」が悪化すると言うことだ。
「うつ病」「パニック障害」「喘息」「糖尿病」「腰椎すべり症」「頸椎の逆S字」
うつ病やパニック障害、喘息は、ストレスでも発作が起こる。
腰椎や頸椎は、母の身体を車椅子などに、移乗させるために無理が起こる。
糖尿病もストレスで薬の効き目が悪くなる。


母の車椅子での生活には、介護スタッフ・訪問看護・デイサービス・介護用具レンタル
が今までより、頻度が多くなるのだ。


ケアマネは、何とか、介護保険と身体障碍者手帳で、この頻度を賄えないか
いろんな知恵を絞って考えてくれていた。
だが、母の住居地での「訪問看護」は、非常に少なく、母の頻度に合う訪問看護の
事務所が見つからない。
介護スタッフも同じだった。
どちらかに、重点を置けば、デイサービスの頻度を抑えないとならない。
前にも書いたが、介護保険では訪問看護の点数が一番高いのだ。
母の足の切断面を診てもらうのは、医療行為の出来る訪問看護しかない。
そうなれば、介護スタッフの頻度を抑えないとならない。
必然的に、その穴埋めは、別世帯である、家族の私に降りかかって来るのだ。


でも周りは言う「だって、あなたの母親でしょ?」と。
「介護」はそんな簡単なものではない。


子育ては、子供が小さければ、ママ友に一時間だけと、預ける事もできる。
ベビーカーも、折りたたんで、子供を抱き、バスや電車、車に乗ることもできる。
だが、親の介護は、車椅子を折りたたんで、バスや電車、車に乗ることなどできない。
隣近所に、一時間だけと、預ける事もできないのだ。


そうなれば、後の選択は「自費で介護をお願いする」しかなくなる。
とにかく「介護」はお金がかかるのだ。


「介護タクシー」を障碍者で依頼しても、ふつうのタクシーと料金はあまり変わらない。
しかも「車椅子のままで乗れる」介護タクシーが、あまりにも少ないのだ。


介護スタッフに、母の食事を調理してもらう頻度を少なくせざるおえない。
すると、私が自宅で「夫のふつうの食事の支度」「自分の糖尿病の低カロリーの食事の支度」「母の塩分控えの食事の支度」と異なった食事を毎日支度しなければならないのだ。
三人三様の食事の支度をするのは、本当に食材もお金がかかるし、手間もかかる。
それを止めれば、母の食事は「介護食」を買わなければならないのだ。


「糖尿病食」「介護食」などは、買うと値段が高い。
とても、母の年金内では払えない。
夫が家計を握ってるため、私自身も「糖尿病食」を買えないでいるのだ。


それに、「うつ病」が悪化すると、私自身、動けなくなってしまうのだ。
かと言って、心療内科では、安易には強い薬を処方しない。


「介護」とは、本人も一番しんどいだろうが、身内もまた、しんどいのだ。
よくニュースなどで「介護疲れで介護する家族が、介護される人を殺めてしまう」
と言うのを聞くと、どんな理由でも殺めることは許されない事だと頭の中では
分かっていても、ココロがいっぱい、いっぱいになって、どうしようもなくなる
意味がよく分かる。

「母」介護事故⇒左足下肢切断

整形外科の若い医師の過診で、右足の下肢を切断せざる終えなくなった母。
その後、大学病院の形成外科の良い医師との出会いから、外科の医師を紹介してもらうことになり、その外科医から、整形外科医を紹介してもらうこととなった。


形成外科の医師は、母の足の切断面の経過を親身になって診て下さった。
そして、外科の医師も、母の人口肛門の状態を診て、通常の位置とは逆に作った事と
簡易的に作ったため、糸が人口肛門から出ていると言う、粗雑な人口肛門を、通常の位置
に再手術をして作って下さった。
その後も、ストマー外来の専門看護師に頼んで下さって、経過を診てくれるようになった。そのストマー外来の専門看護師さんも、とても丁寧にいつもやって下さった。


あの南部の悪魔のような病院から、やっと抜け出し、北部のこの大学病院に出会えて
私も母も、少しホッとした。


あとは、自宅での母の車いすでの生活を、介護保険と身体障碍者のサービス内で
どうやって母に必要な事が出来るか、だった。


ケアマネさんもとても勉強してる方で、母に対して親身になって対応してくださった。


そして「ケアマネ」「介護スタッフ事務所」「訪問看護師」「介護器具メーカー」
「デイサービス施設」と、私と母とで「担当者会議」をケアマネさんが開いた。


母の今までの経緯・持病・処方薬・独居・生活・通院先・母の介護で必要事項
などなど、細かく報告し、これからの対応を話あった。
私と母からは、一番重要視する点を述べた。
「母は閉塞性動脈硬化症と言う病気があり、膠原病もあります。一番気を付けなければ
ならないのは、血液の循環が悪く、心臓より遠い部位、手、足、頭などに血液が
流れません。よって、ちょっとしたキズ、怪我などをすることで、そこから壊疽となり
最悪の場合は、部位の切断となるかもしれません。右足を失った経緯も、同じです。
残った左足も、同じ様に、血液の循環が悪いので、左足への怪我をしない様に取扱い
に十分注意して頂きたいのと、切断した右足も切断面から、打ち身やけがによって
壊疽し、今度は太ももからの切断をする事になる事だけは、避けたいので、取扱いに
十分注意して頂きたいです。」と話した。


十分、各担当責任者が来ていたので、理解してると思っていた。


ある師走、ケアマネさんから、私に「お願いがある」と言ってきた。
内容は「介護スタッフを、年末年始は休ませてあげたいので、娘さんがお母さんを
引き取って、年末年始診てあげて欲しい」と。


本来であれば、年末年始であろうが、介護を必要としてる方には関係はない。
それを承知で、介護スタッフになったのであろうから。
だからこそ、ふつうのパートやアルバイトの仕事とは、時給も違い高い設定であるのだから。


仕方なく、年末年始は私は夫に気を使いながら、母を引き取って面倒を見知るかなかった。だが、私ひとりで母をお風呂には入れてあげることはできない。
母も、また、娘の夫に気を使いながら、年末年始を迎えた。
夫は、もちろん、母の介護も手伝うことはない。
妻である、私の事でさえ、放っておく人間なのだから。


そんな年が2年続いた。
そして、2011年の師走、今年も母を引き取って年末年始を迎える事となった。
いつもの用に、12月28日ごろに、母に電話をし、30日か31日に迎えに行く事を伝える。
夫の仕事も、28日まであり、29日は大掃除、30日は買い出し、31日は煮物で
丸一日は過ぎて行くのだった。


その12月28日に母の自宅に電話をした時、母が私に言ったのだった。
「先週、介護スタッフが、車いすを勢いよく押して、お母さんの左足が車いすに挟まれ
ちゃったのよ。もう、そこが痛くて痛くてたまらないのよ。まったく、あれだけ気を付けてって言ったのに、確認もせずに、車いすを押して、挟まってるから、車椅子を引いて!
って叫んでるのに、意味が分かってなくて、ずっと挟まれたままだったのよ!」と。
それを聞いて、私は「え?怪我したの?血は出てない?」と焦ったのだった。
母は「血は出てないんだけどね、もう、痛くてたまらないのよ。」と。
私は「介護スタッフは、挟まれた足を見たの?」と聞くと
母は「いいえ、全然見てもいかずに、帰ったわよ!」と。
とりあえず、私も、大掃除の用具を買いに家を出なければならず、母の状態がひどいとは
思ってもみなかった。とりあえず、怪我をしていない、血液も出てないと言う事だけで
少しホッとしていたのだった。


すでに、介護スタッフも、訪問看護も、すべてが28日で仕事おさめ。
電話の最中も、母は痛いらしく、時折、息を止めるような声をしていた。


そして、30日にも「明日の31日の夜に迎えに行くね」と伝える電話をした。
母は、元気がなく「痛みが、どんどん増していくのよ」と言う。
私は「では、明日着たとき、私が見るから。」と言ったのだった。


そして、31日の大みそか、母を迎えに行き、自宅に招いた。
ところが、ずっと母は、下を向き、苦痛にゆがむ顔をしていた。
私が「足を見せて」と言い、靴下を下げようと触ると「痛い!いいから、1月の3日に
デイサービスがあって、お風呂に入れるから、その時にでも、デイサービスの看護師さん
に診てもらうから。」と言う。


母は、痛みのため、年越しそばもあまり食べれず、おせちも食べれずだった。
少し、お雑煮を食べたぐらいだった。それ以外、テレビを着けても、見るより下を向いて
「痛い」と苦痛にゆがんでいた。
私が「あまり痛いなら、年末年始はどこも病院はやっていないから、救急車で連れて行ってもらおうか?」と聞くと「いいわよ、もう、明日帰るし、デイサービスに行くから
それまでは、なんとか我慢するわ」と言うのだ。


そして、新年、1月3日にデイサービスの車が迎えに自宅に来るために、2日の夜に母を
送って行った。


そして、1月4日の朝、ケアマネさんから私に電話があった。
「今、デイサービスの看護師さんから連絡があって、昨日お母さんの左足を入浴後に見たら、かなり、赤黒くなってるので、心配なので、すぐに、病院に連れて行って欲しい、と
言われたので、娘さん、どこか病院を探して、休日でも診てもらえる病院を探して欲しい」と。


私は1月4日は、丁度、自分の通院の日で、予約制でこれをキャンセルすると、2か月先にしか、予約が取れない。今は昔の様に、薬だけ下さいと言う心療ができなくなったので
どうしても行かないとならない。母に付き添ってあげる時間が取れない。病院はこれから、電話して探します。」と言ったのだった。
ケアマネさんは「分かりました、病院を探してくれるのであれば、私がお母さんに付き添います。」と言うのだった。


私はあれこれ、病院に電話をした。北の母が掛かりつけている大学病院にも電話をしたが
やはり、年始なので、医師が居ないこと、で断られたのだった。
そして、数件、病院にあたってみたが、やっと、一軒だけ「今日は診察外来あります」と言う病院を見つけたのだった。
経緯を話したが「救急車では来ないでください、余計に診察できない事もあるので。
タクシーで来てもらった方が、診てもらえますからね。」と言われたのだった。


すぐに、私はケアマネに電話をした。
受け付けてくれる病院が見つかり、話しをしてあるので、救急車ではなく、タクシーで
来て欲しいと言われた事を伝えた。
ケアマネさんは「分かりました、すぐに行きます。怪我をさせた介護スタッフの担当責任者も方も来るそうです。」と。


そして、私の通院先の病院は、予約を取っても、何時間も待たされる。
その間、ケアマネさんへの連絡を取っていた。
やっと、私の診察も終わり、帰りに、ケアマネさんに電話を入れた。
「もう、診察も終わり、整形外科の先生は、壊疽してる感じではないし、1月の20日に
かかりつけの大学病院の整形外科の予約が入ってると言うので、それまで、患部を消毒しておくぐらいにしておきます、と言うことでした。もう、お母さんも、自宅に帰ってるので。」との事だった。
ケアマネさんにお礼を言い、電話を切った。


すぐに、私は母の携帯に電話を入れた。
母は「あの整形外科の先生は、レントゲンもなんの検査もしないで、大丈夫だって言うのよ。仕方ないね、20日の大学病院の整形外科の先生に予約してるのだから、その時に
お母さん、先生に経緯を話すわ。
お母さんに、車いすをぶつけて足を挟んだ、介護事務所の担当責任者は2人来たんだけど
謝罪もなく、お母さんの順番が来て呼ばれたら、お母さんより先に診察室に入って
先生に開口一番、先生!診断書を書いてください。なんて言うのよ!先生がびっくりして
そんな診断書、何に使うんだ!?と聞いたら、介護スタッフの事務所の人が、いろいろあるんですよ、なんて言うのよ!その前に、ちゃんと、お母さんに謝るべきでしょう??」と、母は無礼な態度の介護事務所に、怒りがあったようだ。


確かに、患者さんへの怪我だけはしないように、十分に取扱いに注意するように、と
私と母が、あれだけ言ったのに、怪我をさせて、謝罪ひとつない。しかも、怪我をさせた介護スタッフ自身も、母に謝罪もなく、怪我をさせた当日さえも、足の状態も見ても行かずに、とっとと、帰ってしまった。
それは、母も怒るのは当然だ。


それから、3回ぐらい、その病院の整形外科に診察に行き、足の状態を見せた。
足への壊疽の状態もないと言うことで、相変わらず、レントゲンも、検査もなく
母を帰したのだった。


そして、1月20日、北の大学病院の整形外科の診察の日が来た。
整形外科で、母が呼ばれる。
母が年末に、介護スタッフから車いすで、左足を挟まれた事、1月4日に近くの整形外科
に緊急で行き、診察してもらったことを話した。
整形外科の医師は「そうか、じゃあ、近所の整形外科の先生に診てもらったんだね。
じゃあ、僕が診てみよう。」と言いながら、母の靴下を脱がせた。


母の靴下を脱がせ、左足先を見た時、整形外科の医師は開口一番、こう言った。
「あー、これはダメ、もう、壊疽してる、傷はなくても、打ち身で、中が壊疽してるんだよ、ほら、見てごらんなさい、すでに、かかとまで、壊疽が来てて、色が違うでしょ?
これは....可哀想だけど、左足も下肢からの切断手術をしないとならない。
もう、すぐに、しないと、敗血症になって命まで危なくなるから、すぐに入院して。
手術の日は、すぐに決めるから。」と言われたのだった。


それを聞いた、母は、グッタリと肩を落とし、頭を下にして、泣いたのだった。
「また、足を切るなんて....もう、イヤだ.....なんで、お母さんばかりこんな目に....」と。
私は言葉もなかった。ただただ、母の背中をさすってあげるしか。


そして、入院の手続きをして、母はそのまま入院をした。
これから、私は、母の荷物を取りに、自宅に戻って、必要なものを出し、大きなカバンに
詰め、また、病院へと向かった。


母が度重なる手術と、またも、他人からの過失で、足を切断しなくてはならなくなった事
への、怒りと、生きる希望が無くなってしまうのでは?と心配になった。


運よく、入院した病棟の看護師さんが、とても親切で、母への温かい言葉をかけてくれた。ずっと病院に居るわけにはいかないので、いったん、私と夫は帰宅した。


手術の日は、後日、担当医から、私に連絡があることになった。


そして、これから、母の長い辛い日々が始まるのだった。

「母」捨てる神あれば拾う神あり

2007年に水漏れを起こされ、被害者である母が、加害者に訴えられ、裁判となった。
それからの母は、水漏れの際、水を大量に含んだタンスの下敷きになってしまった。
2008年にやっと裁判が終わった。同時に、母は肺炎になり、命の危機もあった。
なんとか持ち直したが、今度は、下腹部の痛みを訴え、横浜の南にある病院に行った。
「脱腸」と診断され、入院して手術した。
すぐに、まだ下腹部の痛みを訴え、同じ病院の整形外科に回され、検査し診察すると
「恥骨・坐骨骨折」と診断された。
そして、すぐに「右大腿骨骨頭骨折」と診断され、入院して、人口関節布設手術をした。
すぐに、また、今後は「左大腿骨骨頭骨折壊死」と診断され、入院し、人口関節の布設手術をした。
退院したその日に、自宅で転び「右足大腿骨人口関節脱臼」と診断された。
すぐに入院し、人口関節の「再布設手術」をしなければならなかったのだが、高熱と高血圧で手術が延期となった。
2009年原因が分からない「直腸窒ろう」と言う状態となり「人口肛門」となった。
そして、この病院の整形外科の医師の過診により「外反母趾」の手術をした。
母の「閉塞性動脈硬化症」を検査もせずに、外反母趾の手術をしたため、そこから「壊疽」となり「右足親指を切断する手術」をせざる終えなかった。
すぐに、切断した箇所から、壊疽が始まり、今度は「下肢切断手術」となった。


2010年私が通院してる皮膚科で「形成外科」の先生が居た。
その先生に、母の状況を話たら「すぐに、私のいる大学病院に来なさい。」と言ってくれた。形成外科は「術後の経過を診てくれる」科でもあった。
母の下肢切断箇所の状態が悪くなると、そこから、また壊疽が始まり、切断する事になるのだけは避けたいと言う願いだった。
なんとか、その形成外科の先生が、懸命に診てくれて、切断面は良好だった。
そして「今後は人口肛門の件も、外科の先生に診てもらった方が良い。カルテを回すから、外科の先生に診てもらって。」と言ってくれたのだった。


この大学病院の形成外科の先生も良い先生であったが、外科の先生も、とても良い先生だった。経緯を話すと、すぐに「ここの病院は、ストマー外来があるから、私から言っておくから、予約してストマーを診てもらって。」と言ってくれたのだった。


今までは、ストマー外来の専門看護師さんが、ブログを綴っていて、そこに私が電話をして、やっと診てもらうことができ、その公立病院のストマー外来の看護師さんたちも
母のために、なんとか合うストマーを試行錯誤しながら、探してくてたのだった。
その時、ストマー外来の看護師さんが、母の人口肛門を見て、開口一番に言った言葉が
「え?通常は、人口肛門は左側の下降結腸に作るのに、なんで、右側に作ったの??
しかも、糸が出てるじゃない!これ、本当に外科医がオペしたの??」とビックリしていたのだった。


そして「いつかは、この人口肛門も、ちゃんと左側に作り治してもらった方がいいよ。
ここでは、申し訳けないけど、重篤な救急の患者さんしか入院できないので、人口肛門の再手術ができないの。」と言っていたのだ。
この公立病院のストマー外来の専門ナースに、北の方の大学病院で外科の先生に診てもらうことができて、そこにもストマー外来がある事を、話した。
公立病院のストマー外来の専門看護師さんは「それは良かった!あの大学病院なら評判も良いので、人口肛門の再手術の事も話してみた方がいいよ。これじゃあ酷すぎるもの」と
快く言ってくれたのだった。


そして、その大学病院の外科で良い先生に診てもらうことができて、ストマー外来の専門ナースにも、良い人に恵まれたのだった。
いろんなストマーを試行錯誤しながら、母に合うストマーが見つかったのだ。
皮膚の弱い母に、かぶれない様に、いろんな物を取り寄せて、合う物を見つけてくれたのだった。


そして、右足の切断面も良好になり、外科の医師が「人口肛門、左側に作るように検査してみましょう。」と言ってくれたのだった。
あの、忌まわしい、南の準公務員の病院で、人口肛門を作ったとき、外科医は私に
「お母さんの場合、人口肛門を作る場所が他に無い。この右側のこの場所しか」と
言っていたのだった。
その事を、この北の大学病院の外科医に話した所「そんなことないよ。場所なんてあるから。」と言って笑っていたのだ。
すぐに、検査をし、きちんと、通常の左側に人口肛門を作れる事が分かったのだった。
外科医は、入院にかかり、すぐにでも、人口肛門の再手術をしてくれたのだった。


それ以降、人口肛門は正常になり、きちんとストマーも合うのがすぐに見つかったのだった。あとは、月日が経つと共に、人口肛門の穴がだんだん落ち着いてきて、小さくなって行くらしい。その穴の大きさをストマー外来で測り、ストマーの穴の大きさに変更していけば良いらしい。
あとは、外科にも定期的に通院し、腸閉そくが起きていないか、便が詰まっていないか
など、診察して経過を診て行く事となったのだった。


そして、その外科の医師が、今度は「整形外科の先生に予約入れておくから、今後も
右足の切断の状態やら、左足の状態も診てもらって。義足の件も、相談してみて。」と
整形外科の先生を紹介してくれたのだった。


本当に、この大学病院の「形成外科医」「外科医」「整形外科医」には、ありがたかった。
まさに「捨てる神あれば、拾う神あり」だと感謝した。


だが、この平穏な月日もアッと言う間に過ぎ、これからが、過酷な母の出来事が待っていたのだった。